中々編

 時は夕暮れ。

 空はゆき降り。

 石の鳥居を潜った先にある寂れた神社の中、二足で立つ一匹の猫と、膝を抱えうずくまった一人の女子高生がいた。


「おい、狗尾えのころ。何があったんだ? 説明してくれよ」

「…………」


 猫は扉に片手を付きそう質問したものの、狗尾と呼ばれた少女は、答えない。

 ただ扉から入る冬風が寒かったのか、あるいはしゃくさわるのか……少女はさらに己の顔を膝と膝の間に埋めるのみであった。

 猫は扉を静かに閉め(この行為には三つの理由がある。一つ目は雪がこれ以上中に入らないようにするため。二つ目は誘拐犯らに見つからないようにするため。そして三つ目は、狗尾が突如外へ飛び出すのを予防するためである)、狗尾へゆっくりと近づいた。

 一歩……、二歩……、三歩そして四歩。

 慎重に、刺激しないように、足音を立てないよう肉球を最大限活かして。

 いま、こいつを刺激するのは――マズい。

 いつ暴れ出してもおかしくない。

 そんなことをされたら、誘拐犯らに居場所がばれる可能性がある。

 猫は狗尾に近づきながら――狗尾を観察しながら思考を練る。

 近づくにずれ、少女の『シィ……、シィ……』という鋭い息が聞こえてくるのが分かった。

 不安定な体調。

 不安定な神経。

 不安定な少女。

 夏祭りで事件の当事者になったとき、

 文化祭でお客さんが来なかったとき、

 そして何より――母親が海外から帰ってきたとき。

 狗尾は大きなショックを簡単に受け、また感情をめぐるましく変化させていた。

 ショックを受けやすい。

 驚きやすい。

 喜びやすい。

 怒りやすい。

 感情が変わりやすく、沸騰しやすく、大いに表現できる。

 『感情を表現できる』というのは、少年少女の薄情化が指摘される現代社会において素晴らしいことだ。だがしかし――感情が豊かなのは、同時に『不安定になりやすい』ということでもある。

 感情を表現できるからって、必ずしも、感情を制御できるわけではない。

 猫にはわかる。

 狗尾と一緒にいたのは、ほんのわずかな一年間であり、たった一年間であったが――それでも、猫にはわかる。

 飼い猫には飼い主がわかる。


「なあ、狗尾。顔を上げな」

「…………」


 猫が問いかけるも、少女は耳障りそうに顔をうずくめる。


「……やれやれ、だな」


 さて、と。

 さーてと、どうするか。

 どうすれば、こいつを立ち直らすことができる? 何をすれば元気付けることができるんだ? そもそもどうして狗尾はこうなっている。いったいどうして、こうなった?

 とりあえず――取り合わなければ何の意味もないのだが――俺にできることをしよう。

 猫は考えた。

 とにかく、このままここに居続けるのは危険だ――この神社がはたして有名なのかどうかは不明だが、もし知る人ぞ知る場所なのであれば、誘拐犯らに見つかる可能性がある。クズは基本、ボロボロな場所を好むのだ。

 まずは……立たせよう。

 いざ見つかったとき、座ったままでは逃げ遅れてしまう。

 どう立たせるか。

 膝を抱える女子高生を立ち直らすには、いったいどうすればいい?

 人はどういう時に立ち上がる?

 黒光りする虫が出現して驚く時か……大声で立つよう脅された時……あるいは――好きなものを見つけた時?

 ……好きなもの。

 女子高生の好物って何だ。

 あまーいスイーツ、可愛いキーホルダー、ハンサムな美少年……否、それは男が抱く幻想なのだろう。少女に求める勝手な妄想なのだろう。

 現実的に考えなければ。

 そう、現実的に――自分が高校生だった時を思い出そう。

 過去を考慮しよう。

 その昔……自分が高校生だった頃。

 四人の女子に襲われた――いやそれは今は置いておこう。危うく思考が停止するところだった。

 教室の女子高生たちは……確か、誰か一人の机を椅子で囲んで会話に花を咲かせていた。その当時は女子特有のナゾの儀式だと思っていたものだが……。今思い出せば、それは決して女子生徒のみが行っていたわけではなく、男子生徒だって誰か一人を囲んで騒いでいたような気がする。女子生徒の場合は、一旦集まりさえすればその場で騒ぐのだが、男子生徒の場合は、例え集まったとしても走り回りながら騒ぐことが多い。そんな気がする……。

 先程から曖昧な表現が多いのだが、なにせ二十年以上も前の話なのだ。やはりどうしても思い出せない部分はある。

 ……それとも、猫の脳に限界が来ているから、なのだろうか。

 あのギャーギャー騒ぎ立てる女子グループは、何をギャーギャー騒いでいた?

 あの時の、あの大笑いの爆笑の元は――会話の主題とは何か。

 あまり上品な話題ではなかったような――


「…………」


 なるほど。

 思い出したが――自分でもドン引きする。

 猫は顔をしかめ――苦虫を嚙み潰したようにして。

 さらには彼尾花かれおばなとの会話すらも思い出した。

 空耳そらみみ狗尾の親としての彼尾花、ではなく――高校時代のクラスメイトとしての彼尾花から聞いた、彼尾花とっておきのネタ――世界せかい評論部ひょうろんぶのメンバーですらドン引きしていた、あの伝説のネタを――!

 実行しなければ……ならない。

 あのネタを実現しなければ――もはや狗尾を立たせることはできないのだ……!

 猫は語る。

 作者ですら思いついた時に軽く引いたあのネタを――あの『しもネタ』を!


「なぁ、萎狗尾なえのころ。知っているか――何故『おっぱい』が『おっぱい』と言われるのか知っているかぁ!?」

「!」


 膝を抱えてうつむいていた女子高生がガバッと顔を上げ猫を凝視する。


「ほら、女性の胸ってパインとしているだろ? だから昔は『ぱいん』と呼ばれていたんだ。で、縁起がいいものには敬意を払って『お』をつけるんだろぉ? お米とかお金とか……。だから女性の胸にも『お』をつけて『おぱいん』と呼ぶことにした。もうここまで来たら流石に察しがつくよなあ? そう、時代が過ぎて時が流れて――『おぱいん』が『おっぱい』になった、ということなのさ!!」

「ちょっと待ってその理屈はおかしい」


 狗尾は猫さんの大福のような顔のほおをつまんで早口で言った。

 さあ、ワードガドリング砲――すなわちロックンロールの始まりである。


「何がおかしいってまず昔は『おっぱい』がパインとしているという理由で『ぱいん』と呼ばれていることからしておかしい」

「いやいや、狗尾。擬音で名付けられたものって結構あるんだぜ? 焼きもちとか」

「あるけども確かに結構あるけども。なんでそこで焼きもちをセレクトしたの、もちでいいじゃん。っていうか、え? もちってモチモチという擬音から名付けられたの? もちだからモチモチじゃないの? モチモチだからもちなの? というか女性の胸がパインって何? ボインでしょ!?」

「ジェネレーションギャップだ」

「ジェネレーションギャップ! まさかのまさか世代の違いが生み出すジェネレーション・ギャップですよ奥さん!」

「それに、ボインって揺れたときの音だろ? パインって叩いた音なんだ」

「叩いたの! 何それかの有名なDVドメスティック・バイオレンスなの!? そもそも何で対象が巨乳前提? よっぽどの張りがないとパインって音しないと思うな!?」

「昔は巨乳と貧乳で使いわけていたんだよ。巨乳が『おぱいん』で、貧乳が『おぺちん』」

「そうかペチンか最低だあ!」


 女子高生はいつの間にか立ち上がっていて、今度は頭を抱え後ろに大きくのけ反りながら叫ぶ。


「猫さんよくもまあ一人の思春期熱盛あつもりな少女にそんな低レベルな下ネタを披露できたね! すごいね最悪だね! 猫さんは変態なフレンズなんだね! 黒歴史確定だよやったあ!」

「安心しろ。このネタの発案者は俺じゃあねえ、彼尾花だ」

「アタイの母ちゃんかよぉぉぉおお!」


 狗尾は突然舞い降りた下ネタに混乱したあまり、第一人称までもが崩壊してきたが、だがしかしこの下らない漫才はもう少しばかり続く。

 どうか立ち去らず、最後まで読んでいただくとありがたい。


「知りたくなかった……。母親の黒歴史だなんて聞きたくなかったよ! 彼尾花さん、あなたの実の娘は実の母の黒歴史にドン引きしていまーす!」

「あらまーかわいそうに」


 イナバウアーを続ける狗尾の足に、猫はポンと手を置いた。なぐさめるかのように。娘に母の黒歴史を教えたのは貴様だろうに。


「さて、では狗尾も元気になったことだし……そろそろ帰るか!」

「この流れで本編に戻ろうとするなあああぁ!」

「んだよ狗尾、まーだ帰る気ねえの?」

「こんな下ネタを隠し持っていた母親がいる家に、下ネタが暴露された展開で、帰宅する流れになれると思う!?」


 狗尾がギャーギャーキーキー騒ぐのを見ながら――“いつものように”騒ぎ立てる女の子を眺めながら、猫は心中ほっとしていた。

 落ち込みやすい人は、基本的には立ち直るのも早い。中には、無理やり感情を隠す人だっている――狗尾は特にその傾向が高いように思われるが――今はそれでもいい。無謀にも強引に心を開かせようとして、時間をかけた結果、開くことなく、壊れることだってある。

 鍵穴だと思ったそれは、ただの傷口かもしれない。

 開けようとイジクりまわしたら、傷口をエグッただけ。

 それだけは、どうしても避けたい――何度も経験し、何度だってその度に後悔した。


「っていーうかよ、狗尾。なんでこんなことになっていやがるんだ? 誰かの家がトンネルみたいになっていたぞ? 靴も脱げていたし」

「えっと、それは――」


 とは言っても、やはり、事実の確認はしなければならない。

 不可欠である。

 猫は『狗尾が誘拐され、自力で脱出した』と推測していたが、もしかしたら、ただの勘違いかもしれないのだ。考え過ぎだったのかもしれない。実際のところは、狗尾がたまたま靴をシンデレラのごとく落としてしまったので帰れずに神社で雪が止むのを待っていたら、まったく関係のない車がたまたま大事故を起こしただけ、という可能性だってある。

 そうなのであれば良かったのだが――残念ながら、猫の推理はよく当たる。

 だがしかし、やはり推定できていなかった部分もあった。

 当事者である狗尾の話を聞く限り――どうやら、狗尾を拉致した誘拐犯らは、あの夏祭りの日の強姦未遂事件の犯人らしい。

 今回は四人の内、三人。

 ジーンズをはいた蟹股の不良。

 半袖半ズボンの爽やかな青年。

 そして――英語を話す幼い白髪の少年。

 残る一人は、夏の日に狗尾による電撃によって気を失い、そのまま警察に連行された。

 そして数ヶ月が経ち、復讐のために誘拐計画を実行に移した――ということである。

 狗尾は国から支給された護身用具アレによって命からがら逃げだしたそうだが、靴に関しては、足に刺激を与えて失神を防ぐためだとか、そういう深い考えがあったわけではなかったらしい。自分が裸足であることに今気付いたそうだ。それこそ、猫の考え過ぎである。


「ん……? 狗尾お前、白い少年と鼻をぶつけたんだよな?」

「あーうん、そう。お年頃の可憐な女の子の鼻を自分の鼻で殴ったとんでもない男の子だよ。最低の極めだよ」

「誘拐する時点で最低なんだけどな……。ちょっと確認したいんだが、その少年はお前と同じ身長だったのか?」

「いや、私よりも大分小さかったけど? 私の脇くらいの高さだったと思う……ところで、私の鼻の心配はナシ?」

「もう一度確認するぞ、狗尾」

「点検事項が多いね、猫さん。何?」

「狗尾、お前は確かに――ぶつけたんだな?」

「え、そうだけど何か――あれ?」


 女子高生はそこで、やっと、ついに気付いた模様だ。

 もしも、普通に立った状態で振り返りながら鼻同士をぶつけたとしても、それは相手の鼻と自分の鼻が同じ高さにないと成立しないのである。自分よりも小さい相手と――または高い相手と――振り返り際に鼻をぶつけるなど、本来ならば実現不可能なのだ。

 そんなシチュエーションが実現するとしたら、相手が空中に浮かんでいたか、こちらが地中に沈んでいたということになる。


「でもそれって、そんなに重要な事でもないと思うよ? 振り返るときにぶつけたんだし、もしかしたら鼻と鼻をぶつけたというのは私の勘違いで、実際は鼻とおでこをぶつけたのかも……」

「だとしても、やっぱり相手の身長が足りねーけどな」

「こう、後ろの不良が持ち上げていたのかも」


 と仮定したところで、今度は持ち上げる必要性がない。わざわざ鼻をぶつけさせる理由がこれっぽちも見当たらない。

 この時点で、このデブ猫にはとある仮説が出来上がりつつあった。

 白髪の少年――浮かぶ男の子――英字を話す――外国――水色のシニガミ。


「しっかし……まさか、夏祭りの強姦魔どもが出てくるとはな。俺はてっきり、もう捕まっているんだとばかり思っていたぜ」

「私も気付いたときはびっくりしたよ――いやまあ、拉致された時点でびっくりしたんだけど」


 そもそも普通はびっくりでは済まない。


「お前、夏祭り以来、警察から何か聞いているか?」

「いや、全然、まったく。『あなたの迅速な対応に感謝します』とだけ言われて……」

「ふーん……事件を未然に防いだ時って、賞状とか感謝状とか送られそうなものなんだけどな。不謹慎だけど」

「あの時の被害者の人――お姉さん? が、『目立つようなことは控えて欲しい』と要望を出したらしいんだよね。ニュースにも流れなかったし、最初の頃は貼り紙――指名手配書も貼られていたんだけど、今となっては全部剥がされちゃったし……」

「へぇ……」


 2030年いまはそんな要望が通るのか――俺の時むかしとは違って。

 一瞬、猫の中で黒く濁ったモノが湧き出そうになる。

 あくまでも一瞬、ではあるが――現実感を与えるには十分だった。

 どうも危機感が足りなかった――現実味がなかった。

 どこか気軽に“強姦”だの“誘拐”だの“拉致”だの、“被害者の人”だの“感謝状”だの“不謹慎だ”だのと抜かしていたが――本来ならば簡単に話すべきことではない。

 架空の話のように言うべきではない。

 かの昔話のように語るべきではない。

 便利なネタとして扱ってはならない。

 決して、断じて、ならない。ならない。ならない。


「狗尾、帰ろう。まだ家に帰りたくないと言うのなら、交番でもいい。リサやミサトの家でも構わない。どこでもいいから――俺と帰ろう」


 その時である。

 どうやら彼女らは騒ぎすぎたようで――自分たちが誘拐犯から追われている逃亡者だという現実を、ほんの少し忘れていたようで――実際、それを一旦意識外に追い出すことで精神を立ち直らすことが、猫の目的だった。それ自体は成功しているが……どうもやり過ぎた。

 なにせ狭い町。

 わずか半日で一周できる、密集した過疎かそ地域。

 大きな声で騒ぎに騒げば――響く。

 遠くまで響き渡る――やまびこのごとく。

 誘拐犯まで響く、逃亡者の声が渡る。


「帰さねえぞ、お嬢ちゃん――ぁあん!?」


 男の荒げた声が聞こえたその次の瞬間、社の扉が蹴り飛ばされた。扉が無茶苦茶に破壊され、出来上がった四角い空間から雪が風に乗って室内へと運ばれる。

 三毛猫と女子高生の逃亡者組が見たその先には――


「ほーら、居やがったほーらいやがった!」


 ジーンズのポケットに右手を突っ込んだ――蟹股の不良がいた。

 右の頬にあった夏祭りの火傷痕に加えて、左の頬にも新たに木の根のような火傷が付けられている。

 誘拐犯三人組が内の一人。

 左手で握りしめ肩に掲げるそれは――黒いグリップテープがくるくると巻かれた――金属バット!

 本来の使用用途はもちろん野球の場においてピッチャーが投げたボールを打ち返すこと、だが、そのシンプルな形状と分かりやすい重量は、人間を『打撲』することにも向いているのだ。

 いかにも不良らしい武器。

 不良は不良らしく。

 そして不良とは――殴ってこそ上等であり、王道であり、下種なのである。

 だって彼は不良、下種を地で行ってこそ不良――!


「おいおい逃がさねーぞ、女。よくもよくも二度も! 俺の顔をオシャンティーでバイオレンスにしてくれたな、ぁあん!?」


 ……まずい。

 これは非常にマズい。

 ここでの『マズい』とは、『とても食べられたモノではない』という意味ではない――まあ、こうやってわざわざ説明するまでもないのだが――『もう本当にどうしようもない』という緊張を代弁しているのだ。

 ぱっと見たところ……この社にある出口は一つのみ。

 先程不良が跡形もなく破壊し、そして今現在不良が立ちふさがっている扉(があった所)、その一つしかない。もちろんその出口は――入口にもなりうる。

 逃げ場がなければ隠れ場もない密室空間。

 まさに猫と女子は袋のねずみ

 さらにさらに番人は金属バットの不良。

 猫はその小さな脳みそで考える。この状況で、この場で、この相手に対して生き残る方法を、手段を、手順を、戦略を思考する。

 だがしかし、これぞという作戦が思いつかない。

 場所が場所だけに思い浮かばない。本来、神社の社といえば、神社としての役目を果たすために道具やお供え物、さらには『本体』が安置されているはずである。

 だがしかし、ここにはそれらしきものが、一切置かれていない。

 使えるモノが何もないのだ。

 すっからかん。

 ここはカラッポです。

 見放された神社、というよりかは――夜逃げされた神社。


「おい、お前だけでも逃げろ! 狗尾――」


 こうなればもう、己の肉体を武器にするしかない……つまりは自分自身がおとりになるしかないと、猫が振り返って女子高生を向いたその瞬間――

 ピロロロロロロロロロロロロロロロロ。

 そんな、耳を裂くかのごとく電子音が鳴り響き――


「あ、ぁああああああああああああああん!?」


 猫の頭上を高圧電流の砲弾が通り、不良の元へと一直線に向かった。

 不良は何度も聞いたであろう警告音に身を縮ませながらも、金属バットで跳ね返そうとするが――金属バットに当たった瞬間、高圧電流の塊はその場で拡散し、弓矢のような電流をまき散らす。

 まき散らされた電流が、最も間近にいた不良の足、腕、首、さらにはあごにまで吸い込まれていく――不良へと感電する。

 そして神経と筋肉を乱暴にかき混ぜられるあの感覚が――最初に見つかった夏祭り、再び拉致した今朝、今現在――三度目の痛覚が彼を襲う。彼を殴る。彼を焼く。彼に罰を下す。


「うわぎゃあ!」


 ここぞとばかりに女子高生と猫は、殺虫剤を吹きかけられたゴキブリのように手足を激しく痙攣けいれんさせる不良を飛び越えて社を飛び出す。

 あとはもちろん――全力疾走するのみ!

 猫と狗尾は社を抜け拝殿から飛び降り、左右に大木が城壁のように並ぶ参道を走り抜ける。参道には石畳みが敷かれているのだが、風化して整備もされておらず、あちらこちらが剥がれていたりズレていたりするため非常に走りにくい。

 四足歩行である猫にとっては何の問題もないランニングコースだが――案の定、狗尾は地盤によって浮かび上がっていた石畳みにつまづき、その場にバタンキューと転倒してしまう。


「うおーい狗尾、大丈夫か!?」


 先を行っていた猫は慌てて狗尾の元へと駆け寄る。

 とっさに駆け寄ったものの、手足の短いデブ猫では、助けるために手を貸すことすらできないのだがが……。


「あ、う、うん。大丈夫だいじょうぶ……膝を擦りむいたとか、そういう怪我もないみたい。早く逃げよ、猫さん。今のうちなら追ってこれないはずだから」

「そうだな。今のうちにできるだけ安全なところへ――」


 “逃げよう”と言おうとして、猫は硬直する。

 起き上がろうと地面に手を置いた狗尾の後ろを――はるか後ろを見て、視察して、疑って、凝視して、そして硬直した。

 、参道の向こう側から、こちら側へと歩み寄ってくる。

 猫の目は決してよくはないのだが、だがしかし、こればかりは分かった。

 は間違いなく、狗尾が言っていた『私よりも小さい白髪の少年』だ。

 英字を話す男の子。

 間違いないと、がそうだと、猫としての感が告げている。

 猫としての本能が。

 人としての経験が。

 “あれはヤバイ”と死に物狂いで警鐘を鳴らしているのだ。

 何も見ていない見開いた目が、真っ白に染まったその髪が、怖いのではない――決して恐くなどない。怖いのは、だから――逆だ。

 恐ろしくなさが、どうしようもなく恐ろしくてたまらない。

 

 あれほど目立つ髪をしておきながら――気配がこれっぽちも感じられない。

 ゆっくりと、極めて普通に歩いてくる。

 

 もし見なければ、もしも見なければ――あの少年には絶対に気が付かなかった。

 視界の中には確かに存在しているというのに、その存在に意識を傾けることができない。探す系の絵本でも見ているようだ。視界には入っているけれども、その存在を捉えることが極めて困難。

 振り向いたら真後ろにいたと、狗尾は言っていた――そりゃあ気付くわけがない。振り向いたのだって、少年が英字で話しかけたからだ。

 振り向かなければ、この接近には決して気付かない。

 振り向く以外に、この少年を知る術はない――!


「……猫さん? どうしたの?」

「…………狗尾。急いで立て……、ッ!」


 猫が一瞬、狗尾へと気を向けたその時。

 再び白い少年を意識すると――すでに消えていた。

 跡形もなく、姿を消していた。

 『狗尾に気を向けた』とは言っても、別に顔ごと向けたわけではない。白い少年に視線を合わせたまま、ただ単に狗尾に声をかけただけ――本当にほんの一瞬のみ、白い少年から狗尾へと、意識をずらしただけなのだ。

 いったい、いったいどこに――?

 いや、待て。

 あの希薄な存在感だ。

 もしかしたら、どこかへと移動したのではなく――姿を認識できていないのだとしたら?

 視界の中に入っているのにも関わらず、姿を捉えられていないのだとしたら。それこそ、探し物系の絵本のように。

 もしかしたら、すでに目の前に―― 


「走れ狗尾!」

「え、ちょっと、猫さん?」

「いいから死ぬ気で走れ、死ぬ思いしたくねえならなぁ!」


 狗尾が姿勢を立ち直らせたのと同時に、猫は全速力で走り出した――もちろん、狗尾を置いてけぼりにしないよう、気を配りながら。

 一匹と一人は石の鳥居を通る。

 猫が石の鳥居を通る際、後ろを振り返ると――少年はいなかった。否、確認できなかった。

 ここから、これからどうする?

 どう逃げ延びる? どう生き延びる? どこに隠し通す――?

 警察を呼ぼうにも、狗尾は携帯電話を事故現場に落としてきている。猫はそもそも持っていない。

 猫は辺りを見渡し、目の前の一般住宅……つまりはもっとも近かった家に駆け寄った。そして持ち前の跳躍力を活かしてインターホンを鳴らす

 何度も何度も鳴らした――何度だって跳んだ。

 だがしかし――無反応。

 猫はすぐに他の家に助けを呼ぼうと足を動かそうとした、その時である。


『はい、どちら様ですか?』


 インターホンを通して、男性の声が流れた。

 その声はまさしく、一筋の希望。

 この機会を逃せるものか――逃げ延びるため見逃すわけにはいかない!


「助けてくれ――」

「――助けてください!」


 猫が助けを求めようとし――その意図を察した狗尾が割り込んできた。

 その行動は正しく、ダンディーでハスキーな声をしている猫よりかは、成人前の少女の声で助けを訴えたほうがはるかに効果的である。

 “助けなければ”という使命感に駆られる。

 女子高生は必死に説明した。

 四人組の男らに車で拉致され、なんとかここまで逃げてきたこと。携帯電話を落としてしまい、警察に頼ることすらできないこと。誘拐犯がすぐそこまで来ていること、私達を助けられるのはあなたしかいないこと。

 涙ながらに助けを求めた――そして返ってきた答えは、


『…………』


 無言だった。

 その無音だけを残し、扉が開かれることもなく――匿われることもなく。


「……そんなまさか――嘘だろ?」


 その後も、猫と女子高生は辺りの住宅に助けを求めた。

 インターホンを押し、呼び鈴を鳴らし、扉を叩くも……結果は最悪なものだった。

 インターホン越しに声を返す女性もいれば、扉をチェーンロックしたうえで開けてくれる老人もいた――だがしかし、状況を説明した途端に追い返されるのだ。

 “えっと……その、他を当たってくれないかしら?”

 “残念だけど……私では、力になれそうにはないね”

 これらの言葉以外には――どこもかしこも、無視。無音。無干渉。


「クソッ、どいつもこいつも冷たい奴しかいねぇのかよ!」


 女の子が襲われているんだぞ?

 おかしい、明らかにおかしい――俺が人間だった頃は、この町はこんなに冷たくなかったはず……だろ?

 俺がいない間に――俺が死んでいる間に、いったい何があった?

 それとも……俺が勘違いしていただけなのか?

 猫の心中に、決して穏やかではない風が渦巻く。だが、あれこれ疑っている時間はない。相変わらず気配はしないものの、こうしている間にも、あの白髪の少年は着実に近づいてきていることだろう。


「えっと、猫さん。どうするの? これから」

「…………ここから一番近い知り合いって、誰だ?」

「うーんと、ここからだと――ミサトくんのお家かな? ここから歩いて十分くらい」

「十分か……」


 十分間も逃げきれるものだろうか?

 何故かこの町は、やけに密集している。密集している分、複雑に乱雑に詰め込まれ入り込んでいるのだ。まるで迷路アトラクションである。もしくは大木の枝。

 角を曲がったら誘拐犯と頭ゴッツンコ……だってありえる。

 夏祭りでは屋台が並ぶ、あの大通りにさえ出てしまえば楽なのだが(なにせ一本道である)、だがしかし、誘拐犯らに見つかる可能性も高くなるだろう。

 さらに最悪なことに、今は真冬である。

 狗尾の体力だって、あまり残ってはいない。いつ限界が来ても可笑しくはないのだ。

 しかも裸足。

 どうすればよい?

 どのように逃げればよい?

 見つからないように――追いつかれないために。


「あーもう……あぁーもう! なんでこんなことになるのかなぁ、私はただ彼氏作ってバラ色の青春を送りたかっただけなのに!」

「落ち着け狗尾、あまり大声出してんじゃねーよ。ていうか、彼氏作るために家出したのかおめぇ」

「もうこうなったら、夜の暗闇を最大限に有効活用するしかないよ」

「暗闇を? どうやって?」

「忍者みたいに真っ黒なカモフラージュをするとか……。猫さん。今からでも遅くないから、三毛猫を卒業して黒猫になろう」

「お前、真面目な顔と落ち着いた声でなにバカなこと言ってんだ――あん?」


 忍者みたいに――忍者みたいに?

 猫は空を見上げた。

 互い違いに重なり合う屋根と屋根の隙間から、黒い夜空と白い夜月が姿を覗かす。


「…………」

「あのー、猫さん? どうしたの?」

「……なぁ、狗尾。お前って奴は――」


 も、もしかして怒った?

 狗尾はただ、ものすこぶる沈んだ空気をなんとかしようと、ちょっとばかしふざけた発言をしただけなのだが、そんな軽率な行動が猫さんの気に障ったのかと思い、狗尾は慌てて弁解をしようとした。

 ……捕まればもっとも酷い目に遭うのは自分自身だという事実に、この女は気付いていないのだろうか。

 だが――どうやら、それは狗尾のはやとちりだったようだ。


「お前ってヤツは――本当にえていやがるぜ」

「え……?」


 三毛猫は家の側に放置されていた冷蔵庫やらテレビやらの粗大ゴミを、階段のようにして登る。そしてゴミ山の頂点にて――ピョンと跳び、屋根に着地した。下にいる狗尾には見えないが、猫が首だけを出して、見下ろして言う。


「ほら、お前もさっさと来いよ。雪で滑るんじゃねーぞ」

「え、ははい? いやいやダメだよ、他人のお家の屋根に勝手に登っちゃあ! 例え自分ちの屋根だろうとダメなものは駄目だけど」

「さすがにあいつらだって、いい歳した女子高生が屋根の上を逃走ルートにするとは思わねーだろ?」

「あ――」


 こうして二人は、一人と一匹は屋根を登ることとなった。

 大通りも駄目、路地裏も駄目となれば――道なき道を進むしかあるまい。

 狗尾は最初は、人様の屋根に許可もなく上るのを嫌がっていたものの、既に屋根のうえにいた飼い猫の説得に負け、渋々とよじ登った。一番の決め手は、『お前、気ィ遣って得すると思うか?』だったに違いない。

 屋根の上に登った逃亡者たちは、とりあえずはここを離れようということになった。

 雪は既に止んではいるものの、ほんの少し降り積もっているため、移動には細心の注意が必要となる。そもそもの話、普通は屋根と屋根の間を歩き渡ったりしない。いくら田舎とはいえ、オンナノコである狗尾にそんなアクティブ過ぎる経験はなかったので、移動にはかなり手間取った。狗尾がいちいち「うおぉ!」とか「ひえぇ!」とか小さく悲鳴を上げるのだ。せめて少女らしく可愛らしい悲鳴を上げてくれれば多少はマシなのだが、残念ながら、狗尾からはおっさんのような悲鳴しか発せられない。

 人様の屋根にいる以上、こうなってしまえば誘拐犯だけでなく警察までも警戒しなければならないのは、なんだか皮肉である。

 音を立てぬよう、慎重に。

 見つからぬよう、隠密に。

 雲で見え隠れする月を背景に、猫と少女は忍者のごとく。

 忍者のごとく……。

 うん。

 猫が屋根を歩くのは、まあ分からなくもないのだが――背の高い少女が屋根に四つん這いになっているのは、やはり納得できるものではない。だがしかし、それは現実であり、実際にこうして屋根から屋根へと飛び移っているのだから仕方あるまい。人様の家の屋根を、かわらをずらしながら、時には割りながら。


「ま、ここまでくりゃあ大丈夫だろ。道の確認もかねて、ここいらで休憩しようぜ」


 猫は平たい長方形の屋根に立ち留まると、振り返って言った。


「ぜはぁ……ぜはぁ……ひーひー」

「息切れ過ぎだろ」

「ス、スリルがありすぎるよ猫さん……。なんだっけ、道確認?」

「ミサトくんの家に避難するんだろ? コンクリの道と屋根の道じゃあ、勝手が違うからな。ミサトくんっちの屋根がどんなものか、覚えてるか?」

「んーと」


 屋根に腰を下ろし、狗尾はしばらく考えるような素振りを見せた後にこう答えた。


「なんか草が生えてた」

「…………草が、なんだって?」

「草が生えてた」

「草が――生えていた」

「うん、草が生えてた」

「草が……生えていた」


 猫はほんのちょっとだけ思考を停止させ(そのままの意味で思考が停止し)、やがて頭をぶんぶんと振っては、


「おーけー、分かった……。草が生えている屋根だな? 俺が探してくるから、お前はここで休んでおけ」

「猫さん、一人で大丈夫? 私が探したほうがよくない?」

「一人じゃなくて一匹な。お前は追われている身だけど、俺は別に見つかっても問題ねーわけよ」


 誘拐犯及び強姦魔が探しているのは、あくまでも、女子高生である狗尾のみである。彼らの目的は、夏祭りで邪魔をされたことに対する『復讐』なのだ。

 狗尾は夏祭りの時、そして今回逃走する際中、合わせて三回も、彼らに火傷を負わせている。

 顔面に大きく残る、木の根っこのような目立ちに目立つ傷跡を。

 彼らのうらみと怨念おんねんいかりと執念しゅうねんは、並大抵ではない。


「んじゃ、行ってくるぜ。すぐに戻るから、大人しくしてろよな。本当に大人しくしてろよ? いや別にフリとかじゃあなくて、もう頼むから大人しく座ってろよマジで」

「私、そこまでわんぱくじゃない……」


 飼い猫は飼い主を残し、一匹でより上にある屋根へと飛び移った。

 上へと跳び、さらに上を目指して、時にはパイプを足場代わりにして登っていく。途中で狗尾へと視線を落とし、目が合って、問題なさそうなのでさらに屋根登りを続ける。

 そうして猫は、そこそこ見晴らしが良い家へと到着した。四角いコンクリート屋根である。


「ここでいっか。さーて、と……」


 もっとも高さがあって見晴らしが良さそうな建物は役所なのだが、ここからでは、さすがに遠い。役所が遠いということは、交番だって遠いということだ。


「……草が生えているんだったよなぁ?」


 辺りを見渡して、自分が家出少女を探しに大分遠いところまで来たことに、やっと気付く。一日で一周できる程に小さな田舎町ではあるが、毎日の日課である散歩だって、午前中をまるごと消費して歩き回っているのだ。

 ここから見える役所の角度や大きさを目安にすれば、まあ、場所の推測ができなくもなかろう。

 狗尾の実家である空耳家は――生前は猫の実家でもあった――やはり、避難先としては遠すぎる。

 となると、ここは予定通りにミサト家に避難するべきだろうか。……いや、そうとも限らない。もしかしたら、他にも近いところに知人がいるかもしれない。

 例えば――リサの家。

 猫は直接は見たことはないのだが、リサのお家はかなりのセレブらしいので、それなりに豪華な家を探せば……。


「あー、しまった。別にこの町に住んでいるとは限らねーんだった」


 隣町からわざわざ通学して来ている可能性だってある。

 いやむしろ、その可能性の方が高い。

 失礼ながらも言わせてもらうが、金持ちがわざわざこんな不便極まりない寂れた田舎町に住みたがる理由が思いつかない。学校に関しては、普通科の高校がこの辺りには市立朝日あさひ高等学校しかないので仕方がないとしても、だ。

 ちなみに、普通科以外の高校なら、農業科の高校が一校だけある。昔は三つ隣の町にある高校の分校ぶんこうだったのだが、十年ほど前に独立している。


「やっぱ、ミサトのお家を探したほうが手っ取り早いな」


 猫はそう独り言ちると、改めて周りを見渡した。

 そう時間はかからず、ミサトの家はあっさりと見つかった。草が生えている屋根など、田舎には腐るほどある。なんなら家の中にも生えているくらいだ。

 しかし、確かにミサトの家は『草が生えている』と形容されてもおかしくはない。

 何故ならば――


「――ささが生えているな」


 その通り、ミサトの家にはご立派な笹が生えている。

 パンダが好んで食し、七夕では色紙が吊るされる、あの『ささ』が生えているのだ。屋根だけではない。家の中にも遠慮なく繁殖している。むしろ、腐った支柱の代わりに笹が屋根を支えている。

 とても人が住めるとは思えないが、しかし――あの家こそがミサトの住処であると、猫は確信した。

 もしサバゲ―部(サババ部)に変な奴しかいないと仮定するならば……納得がいく。

 化け猫と暮らす副部長――空耳そらみみ狗尾えのころ

 女装を施しおとことして生きる部長――城楼棚せいろうだな罠太郎びんたろう

 一発の銃弾で全てを混乱の渦に叩き落す部員――リサ。

 そして――ミサト。

 ここまで『変な奴』が揃っている中で、ミサトのみが『変な奴』じゃない方がおかしいだろう。どう考えてもバランスが悪い。

 というわけで、あのパンダの餌箱みたいな家は間違いなくミサトの家なのだ。

 これは決定事項である。


「見つけたのはいいけどよぉ……もう少し走る必要があるな。まぁ、空耳家よりは近いか」


 もうこの際だし、人間だった頃の友人アイツを頼ってもよさそうだな――と呑気に考えていたその時。

 その時――その時だった。


Found Youみつけたよ

「…………ッ!?」


 突然、後ろから英語で話しかけられ――振り返ると。

 振り返ると、そこには――白髪の少年がいた。

 真っ白で短い髪の毛に、透き通るような白い肌。雪のような白いTシャツと、飾り気のない灰色のボトム。

 背中に生えた、黒くていびつな翼。

 対面してもなお、一切感じられない存在感。


「……な? …………にゃあ!?」


 あまりの存在感のなさに、いくらかのタイムラグを挟んで、猫は猫のように叫んでは猫のように後ろへと跳んだ。

 いつのまにそこにいた!?

 なんでここにいるんだ!?

 黒くていびつな翼――つばさ!?

 猫の頭の中に反射的な疑問が飛び交うなか、白髪の少年は屋根へと降り立ち、背中の羽を折り畳みながら歩いて近づいてくる。そこで初めて、それまでこの少年が空中に浮かんでいたことに、猫はたった今気が付いた。


「お、お前――やっぱり『』かよ!」


 狗尾が鼻をぶつけたときだって、この少年は空中を飛んでいたのだろう――この希薄な存在感だって。


『ねえ、交渉しようよ。ぼくと取引してよ』


 少年は歩き寄りながら言った――ここから先は、猫を翻訳者として、英語を日本語に脳内変換してお送りする。


『……あ? 取引だと?』


 猫は英語で返した。

 悲しきかな、相手の言語に無意識に合わせるのは、元日本人としての本能である。だが、この猫は英語とブラジル語と日本語ならば万能なので、会話がつまずくことはない。

 つまずくとしたら、もっと他の部分。


『取引って、なんだよ。誘拐犯及び強姦魔と取引なんか、するつもりはねぇぜ?』


 とりあえず、強がれるだけ強がってみる。

 いまだに混乱し困惑してはいるものの、相手に悟られぬように。


『確かに、ぼくは誘拐犯及び強姦魔だけど――今は、アンデットとして会話したい。そう思うよ』

『アンデットとして、だぁ?』

『きみ、バケタヌキだよね』


 正しくは化け猫である。

 だがしかし、同じアンデットであることに違いはない。

 シニガミを目視でき、シニガミと接触でき、シニガミと会話ができる――アンデットの条件は揃っている。


『それが――どうしたっていうんだ?』

『だから、取引だよ』


 猫の睨みに何の反応も見せず、少年は歩みを止めない。

 そして本題に入った。


『あの子をぼくにちょうだい――代わりに、きみには死を逃れる方法を教えてあげる』

『――!』


 白いアンデットの言葉に、猫のちいさな心臓が締め付けられる。

 猫の奥深くから湧く、黒く、どろっとした、粘着質な何かが――猫の胸を徐々に締め上げる。

 この、黒い感情は――


『シニガミを退治する手段を教えてあげる――その対償に、エノコロをぼくにちょうだい』


 この黒い感情は――敵意だ。

 敵意てきいであり悪意あくいであり害意がいいであり殺意さついであり一意いちいであり奥意おくいであり隙意げきいであり決意けついだ。

 猫は今この瞬間、はっきりと認識した――

 白髪の少年は、手を伸ばせば届きそう距離で立ち留まり、そして手を差し出して言う。


“きみだって、死にたくはない――Did Yaでしょ?”


 ――こいつは敵だ。



  ■  ■  ■



 この日記が小説であると仮定しよう。

 はたして、その小説が起承転結に基づいているのか、あるいは三幕構成を参考にしているのか、はたまた両方をごちゃ混ぜにしたものかは不明である。だがしかし、もしもこのストーリーに“プロットポイント”などと呼ばれる大きくも精密な変わり目があるとするならば――その場所がどこかは、きっと作者ですら断言できないだろう。

 それは即ち、その作者は行き当たりばったりで小説のようなモノを書いているということではあるが、その作者という生き物がきちんと脚本きゃくほんを組み立てていたならば、もっとも大きな“プロットポイント”は既に過ぎ去っているはずである。

 なにせ次回の次回の次回の次回は最終回。

 前にも提言した通り、ハッピーエンドで終わることはない。

 最終話は最後に回るからこそ最終回なのだ。

 激しく回る舞台の上では、必ずと言ってもいいほどに誰かが振り落とされる。

 要するに私が言いたかったのは、『多くの小説では最後に誰かが死ぬ』ということである。

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