リグレット

「櫻子、本当にもう帰るのか。」

「うん…。」

電車のアナウンスに掻き消されてしまいそうな、ぼそぼそとした父の低い声に、私は曖昧に頷いた。


見送りは別に大丈夫。そう私が言ったのにもかかわらず、父は駅まで着いてきた。気まずいだけなんだから別についてこなくてもよかったのにと思ったが、まあそれもそうか、とすぐに思い直した。彼だって少なからず淋しいのだ。妻に先立たれて。


仲の良い夫婦だった、と言い切ることはできないと思う。夫婦喧嘩は多かったほうだと思うし、離婚騒動だって数え切れない程あった。幼い頃、よく両親の怒号を聞いて泣きながら布団にくるまっていた事を思い出す。そう考えると、ここ数年は2人の関係もかなり落ち着いたのだなと思う。

「あの頃はほんとに憎くて憎くて!なんであんな人と結婚しちゃったんだろうって若い頃の自分を恨んだけど、今の生活の良さを考えると、それももしかしたらこの時のためにあったんじゃないかって思うくらいなの。本当に、今は幸せ。」1年ほど前、母は電話口で心底嬉しそうに話していた。母が「幸せ」と言い切っているのが、私はすごく嬉しかった。あの頃の、毎日のように怒って、泣いていた私たち家族には想像できなかっただろう。


そして、母が亡くなるなんてことも、私たちには想像できなかった。そう思うと、今はもうあの頃の私に、安心して生きてだなんて胸を張って言うことはできない。


「じゃあ私はもう行くね。元気でね!」

そう言って私は、できるだけ感傷的な雰囲気にならないよう、急いでいる風を装って電車に乗り込んだ。プシューという音と同時に、ドアが閉まった。窓越しに、ホームに佇んでこちらを見ている父の姿が見える。

その寂しさと疲れを纏った顔を見たら、胸がきゅっとなって、自分の選択は本当に正しかったのか分からなくなってしまった。


距離を作っているのは、自分なのではないか。


そうして心に小さな後悔が生まれかけた時には、もう電車は発車していて、父の姿も見えなくなっていた。

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