「もうだめなんじゃないか」


そんな風に思うようになってしまったのは、いつからだろう。母が亡くなってからしばらくははあまりにも忙しすぎて、自分の心と向き合うことをしなかった。というよりも、できなかった。まるで感情が無くなったように、やらなければいけないことを淡々と済ませていった。

もちろん、悲しみはある時を境にとめどなく溢れてきた。業務のように、無心でこなしてきたことたちが一段落すると、何か大事なことを忘れているような感覚に襲われる。そしてすぐに気づくのだ。ああ、お母さんがいないんだ、と。小さな違和感が、じわじわと重く、大きくなっていく。そしてようやく、悲しみになるのだ。色々な片付けのために実家に帰って、その時にふと目に入った家の中の風景が、子供の頃に飽きるほど見た何気ない光景と重なる。ここでお母さんは最期の時まで、普通に生きていたんだと思うと鼻の奥がつんと痛んで、涙がこぼれてしまう。

今は感傷に浸る時期なんだ、きっと。

そう自分に言い聞かせて、1人しくしくと泣いた。


母が亡くなって気づいたことは、自分は母の顔を思っていたより見ていなかったのかもしれない、ということだ。いや、きっとたくさんたくさん見ていたけれど、あまりにも何気なすぎて、脳が大切なものだと認識しなかったのかもしれない。いつかは失くなってしまうとわかっているのに、今はまだその時ではないと信じて疑わない。あの頃の私を責めてやりたくなる。でも、しょうがないとも思う。私はまだ二十五だし、家族との別れなんていうビッグイベントはもっともっと先だと思うのも当然のことだ。それでも、死は残酷なもので、ランダムに人に襲い掛かる。前触れがある時もない時もある。私だって、明日絶対に死なないだなんて言い切れない。そう思うと、今生きている自分の存在すらなんだか疑わしく思えてきて、体がふわりと宙に浮いたような感覚になる。


この頃からだと思う。死に対するぼんやりとした興味と、生に対するほのかな絶望感が、私に纏わりつきはじめたのは。

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