第3話

 音楽室は、中に誰かいるのか、鍵がまだかかっていなかった。忘れ物しただなんて、何だか恥ずかしくて、目立たないように、音を立てずに扉を開けようとした。忍者にでもなった気分で、ドアノブを押したその時だった。

「だから!わたしは変えない方がいいって言ってんじゃん!」

微かに開いた扉から、怒鳴るような金切り声が聞こえた。この甲高い声は、副部長の黒崎くろさきだ。ちらりと部屋の中を見ると、黒崎さんの他に、白石さんと叶人もいる。幹部で話し合いでもしているのだろう。ここからでは遠く、三人の表情はよく見えないが、どうやら自由曲の件で揉めているみたいだ。

「みんなで決めたじゃん!あの曲にしようって。定期演奏会でも演奏したし、一年生に楽譜も渡した!それなのに変えるなんて、あんたバカじゃないの!わたし達の三ヶ月間はなんだったの!」

「だから!何回も言ってるだろ!」

黒崎さんの声に反応したのは、叶人の声だった。叶人は温厚だが、音楽のこととなると、少々頑固なところがある。元々、黒崎さんと叶人は、あまり仲が良くなかったが、それにしても、叶人がこんな風に声を荒げるのを、望美は初めて聞いた。

「編成上、あの曲にすれば、全員がコンクールメンバーになれる!部員が増えて、各パートのバランスも変わったんだ。僕は、『七夕』の方が、みんなの音にも合ってると思うしさ!それに……あの曲は、三ヶ月もやってんのに、一向に進歩が無い!僕は、最大限のことはやってるつもりだ。でも全然良くならない!なんでかって?みんな練習してないからだろ!黒崎だって、この前のパート練習のとき、一年生達とダラダラ喋ってただろ!やる気無いまま適当に練習するより、短い時間で、追い込んでやった方が、みんなも練習するはずだ!あの曲を聴いたときのみんなのキラキラした顔を、黒崎も見ただろ?」

叶人の物凄い剣幕に、黒崎さんは黙った。言い返せなかったのだろう。望美にとっても、黒崎さんの所属するパーカッションパートは、あまり熱心な印象はない。パーカッションだけでなく、熱心に練習しないパートは少なくない。

「二人とも落ち着いて!彦坂くんも、そんな言い方ないんじゃない?」

白石が慌ててなだめる……が、火に油だ。黒崎も叶人も、さらに言い方が激しくなっている。完全に入りづらい空気感に、望美はただただ気まずかった。

「ん、誰?」

二人をなだめていた白石が、望美に気づいた。白石につられて、二人もこちらを見る。あまりに急で、望美は思わず、ギャッ、と、間抜けな声が出た。

「望美?」

そう言ったのは、叶人だった。叶人は驚いたように、綺麗なアーモンド型の目を丸くしている。

「あ、あの。筆箱、忘れちゃって……」

恐る恐る、身をかがめながら望美が言うと、

「あ、ごめん!入りづらかったよね!どうぞ!」

と、白石が繕ったように言った。声が上ずって、いつもより高くなっている。それに気づかないふりをして、すみませ〜ん、と言いながら、慌てて筆箱を自分の譜面台から取った。

「望美ちゃん、さっきの話、聞いてたの?」

音楽室を出ようとした望美に、黒崎が聞いた。黒崎も、困惑のような、気まずさのような、なんとも言えない表情を浮かべていた。

「ちょっと黒崎、そういうのやめろよ」

叶人が黒崎を咎めると、また空気が悪くなった。望美は、何だか怖くなって、首を大きく横に振った。

「そっか、ならいいの」

黒崎は、ごめんね、と言って、にっこりと笑った。黒崎さんってこういうとこあるよな、と、心の中で毒づきながら、お疲れ様です、と、そそくさと音楽室を後にした。確かに、黒崎の意見も最もだ。でも、だからといって、七夕を演奏したい気持ちに変わりはない。あの心を揺さぶる演奏を、私達も出来たのなら。

 雨降りそうだから早くして、という夢からのスマホのメッセージ通知を見て、望美はさらに早足で校舎を出た。


 「それじゃあ、ミーティングを始めます。みんな、どっちが良いか、決めてきましたか?」

ミーティング当日。緊張さた面持ちの白石の問いに、皆がバラバラと頷く。しかし、皆の気持ちは固そうだ。自由曲をどうするかは、今から多数決で決められる。七夕を演奏したい。その望美の願いは、叶うのだろうか。

「じゃあ、どっちが良いか挙手してもらいます。……自由曲、このままでいきたい人!」

手を挙げたのは、黒崎さんと、バスクラリネットの紅林くればやしさん、ホルンの緑川みどりかわさんだった。

「手を下ろしてください。……では、七夕がいい、という人!」


三人以外の全員が、手を挙げた。


「では、今年の自由曲は、『七夕』に決定します!賛成の人は拍手してください!」

白石さんの言葉に、大きな拍手が上がった。紅林さんと緑川さんも、元々そこまで拘りはなかったのか、皆と同じように拍手をした。


「納得出来ないっ!」


 拍手に紛れて、悲鳴がおこった。絹を裂くようなその声は、黒崎さんのものだった。水面が凪ぐように、拍手が止む。

「わたしは嫌だ、絶対に嫌!この時期に自由曲を変えるなんて馬鹿げてる!一年生や、初心者の子の負担も考えなよ!みんなは天宮先輩の言いなりになってるだけじゃん!わたしは嫌!いやだ……」

黒崎さんは、わっと泣き出してしまった。ちょうど隣に座っていた白石さんが、彼女の背中をさすった。叫び声のような、耳が痛くなる高さの声が、教室中にこだまする。確かに、黒崎さんの意見も一理ある。でも、だからといって、この決定を覆すことは出来ない。そして、望美もまた、七夕を吹きたいこの気持ちに、嘘はつけなかった。

 黒崎さんが泣いている間、教室は嫌な空気が張り付いていた。望美の隣に座る夢は、苛立っているのか、白く長い人差し指で、小刻みに机を叩いている。望美もつられて泣きそうになったその時、でも、と、黒崎さんが口を開いた。

「……みんなが七夕やりたいなら、いいと思います……」

小夜子さよこ、ホントにいいの……?」

白石さんが尋ねると、黒崎さんは、涙ぐみながらも、うん、と、首を縦に振った。

「では、私達星降高校吹奏楽部は、自由曲『七夕』で、地区大会金賞、そして、県大会出場を目指します!賛成の人は拍手をお願いします!」

白石の言葉に、誰からともなく、教室には、さっきよりも大きな拍手がおこった。望美は、ホッとして、さっきよりも大きく拍手をした。


 そして、星降高校吹奏楽部の夏は、動き出した――

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