第2話

 自由曲、変更。


 本番二か月前にされたこの提案に、皆のどよめきが手に取るようにわかるほど、教室は異様な緊張感に満ちていた。望美は、自分のはっと息をのむ音で、我に返り、天宮先輩のほうを見た。

「まあまあ、いったん聞いてください。今みんなが練習してくれてる自由曲やけど、白石さんや彦坂君から聞くと、二年生もまだ譜読み間違いとかあるみたいやんな?」

天宮先輩の問いかけに、数名の二年生が目をそらした。望美や夢、叶人は、真面目に練習するタイプだが、そうではない部員も少なくはない。コンクールという究極の己との戦いの場において、この温度差の違いは、望美たちの課題でもあった。最も、それに気が付いているのは、叶人ぐらいなものだろう。

「正直、あの曲はとっかかりにくいというか、楽譜がシンプルな分、聴かせるのが難しいんですよ。それもあって、このままこの曲で練習を続けるより、違う曲にしたほうが、みんなのモチベーション的にもいいのかなとか思いまして。で、ちょっとこの曲聴いてみてほしいんやけど」

そう言って、天宮先輩は、くすんだベージュのトートバッグの中から、小さなスピーカーを取り出した。天宮先輩は、スピーカーをセッティングしながら、続けた。

「今から聴いてもらうのは『七夕』っていう曲です。めっちゃ有名な曲やから、知っとる人もおると思います」


 そして、音が流れた。

 その瞬間、その一音に、望美はビックバンの如き衝撃をうけた。


 望美だけではない。隣に座る夢も、前にいる叶人も皆、その一音に、その調べに、吸い込まれそうになっていた。

 荘厳なトランペットとトロンボーンのメロディー。緩急の激しいフレーズを、クラリネットの対旋律が変幻自在に歌う。シンバルやシロフォンといった打楽器の、煌びやかなサウンドが、そこに軽快さを創り出す。テンポが遅くなったところで聴こえてきたのは、この曲の見せ場、アルトサックスとユーフォニアムのソリだ。明るさの中にも繊細さのあるアルトサックスと、まろやかで上品なユーフォニアムが、語りかけるように音を紡ぐ。優美でロマンチックなその場面に、望美だけでなく、その場にいた全員が魅了されていた。

ソリが終わると、オーケストレーションが増え、ソリのフレーズを皆で奏でる。先程までとはまた違った重厚感が生まれる。テンポが元に戻ると、フルートとピッコロの複雑な連符が、なめらかなメロディーとは対照的な鋭さを与える。力強いホルンのメロディーを、スパイシーなオーボエの対旋律と、重厚感のあるチューバのハーモニーが支える。そして、曲はクライマックスにかけて、よりサウンドは厚みを増してゆく。金管楽器の華やかで綺羅びやかなメロディーの裏で、木管楽器の流麗なトリルが光る。ティンパニがさらに壮大な響きを創り、最後はその余韻をほんの僅かに残し、皆同じ一音で締めくくられた。


 曲を聴き終わった望美達は、暫くの間、呆気にとられていた。困惑、衝撃、感動、様々な声が、あちらこちらで聞こえてくる。

「ねぇ、望美」

隣に座る夢が、少し身を乗り出して、望美に話かけた。小さな声だが、そこには確かな高揚感があった。

「めっちゃ良くない?『七夕』」

そう望美に問う夢の瞳は、いつもより輝いて見えた。あの冷静な夢が、と思うと、望美は可笑しくもあったが、答えは一つだった。

「うん、マジで良いと思う!」

「だよね!」

夢は、満足そうににやりと笑った。望美が夢に話そうとした時、天宮先輩が口を開いた。

「まぁ、あくまで提案なんで、皆さんでまた話あっておいてください」

そう言って、天宮先輩は、ありがとうございました、失礼しますと言って、教室を後にした。少しキツめの香水の匂いが、教室に残る。

「じゃあ、明日またミーティングをします。明日までに、自由曲をどうするのか、それぞれ考えてきてほしいです」

白石の言葉に、はい、と、不揃いな返事がちらつき、今日のミーティングが終わった。

「あたしは七夕がいいわ。絶対的七夕派」

「うん、私も七夕派かな」

揚々と言う夢と並んで、望美も教室を後にした。

「あ、音楽室に筆箱忘れたかも」

「はぁ?もう望美、そういうことは早く言いなさいよ」

呆れた、といわんばかりの冷たい目で、夢は望美を見た。

「わわっ、ごめん!すぐ戻るから、待ってて!」

はいはい、という夢の適当な返事も聞かず、望美は音楽室へ走りだした。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る