アイロン
始める前に、まず水をくむ。半透明プラスチックの蓋を開くと、丸っこいフォルムの潜水艦か、宇宙船か、何らかの乗り物の天井ハッチが開けられたように見える。蛇口からの水の勢いをしぼって水流を細くし、水を外さないようにして慎重に満水まで入れる。そのまま居室へ戻り、電源を入れてしばらく待っていると、やがて取っ手のまわりに熱い空気が立ち上がり、蒸気がしゅごおーと景気の良い音を鳴らし始める。こうして準備完了だ。
自衛隊に入ってまず学ぶのは、銃の取り扱いでも匍匐前進のやり方でもない。まず学ぶのは、アイロンがけや、縫い物や、靴磨きや、ベッドメイクなどの生活のスキルである。特にアイロンと靴磨きは反吐が出るほどやる。新隊員教育では、夕食と風呂を済ませた後、寝る前の点呼までほとんどアイロンと靴磨きをして過ごす。課題や勉強はそれらの合間にこなすのだ。
ここまでアイロンアイロンと書いてきたが、「アイロン」というよりも「プレス」という言葉が通常使われる。陸自では(海自や空自もそうかもしれないが)アイロンという家電そのもののことは「アイロン」と呼ぶが、アイロンを使って服のしわを伸ばす行為のことをもっぱら「プレスする」と言う。読んで字のごとく、洗濯した迷彩服の両腕と両脚に、ちょっとやそっとでは消えない折り目をつけるため、全体重をかけて全力でしわを伸ばすのだ。心臓マッサージのような体勢で両手を使ってプレスしていると、アイロン台の脚がぎしぎしと軋み、顔中に汗が滲んでくる。自前で購入した霧状の洗濯のり(キーピングのり)を駆使しつつ、固くしっかりした折り目を作っていく。プレス線がへなへなしていたり、二重線になっていると、もれなく指摘されて「反省」することになる。
新隊員教育の班は大体どこも十名程度で、ひとつの班に用意されているアイロンは二台ほど。数少ないアイロンを班内で回して使うのだ。不器用なやつは三十分以上かかるので皆から急かされる。常に限られた物資でやりくりしなければならないのでつらい。さらに言うと、新教のアイロンはどれも長年酷使され続けてきたものばかりなので、熱の効き目がいまいちなことが多い。
新隊員期間が終わると、自前で新品のアイロンを買うやつもちらほら出てくる。1等陸士になったばかりの頃、同じ中隊の同期が、次のボーナスでティファールの一番良いアイロンを買うと言い出した。ティファールの高いアイロンは営内共用のものに比べてかなり大きく、熱くなるスピードも段違いで、その鋭いフォルムはどこかSFめいた未来の武器のような雰囲気すら感じられる逸品だ。握って体の前に構えると中世の騎士の盾のようにも見える。その同期はアイロン台も新しく購入し、自分専用のぴかぴかのアイロンとアイロン台を使って、悠々とプレスに興じるようになった。
目新しいものの噂というのは、あっという間に営内中に広まる。やがてその同期のところに、少し見せてほしい、貸してほしい、と寄ってくる者が毎日現れるようになった。同期間なら断ることもできようが、先輩相手にNOを突きつけるのは中々難しい。どの部隊にも、年長の陸士長なんかで底意地の悪いやつが必ずいるもので、その手の輩に目をつけられたらたまったもんじゃない。ルームメイトにそんな先輩がいたらもう最悪である。結局そのティファールのアイロンは同室の先輩に毎日使われるようになり、実質的な共用アイロンになってしまった。しばらくして部屋替えが行われた後も、その先輩はしつこくアイロンを借りに来た。要するに、うざ絡みをしたいだけなのだ。
私も一度、同期のよしみでその高価なアイロンを借りたことがある。ぴかぴかした銀色の尖端は不格好に歪んでいた。おそらく誰かに貸した時に、床に落とされたか何かあったのだろう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます