駐屯地に初めて足を踏み入れて、真っ先に行うのは制服類の採寸である。式典で着る制服や制帽、普段の訓練で使う迷彩服や帽子を試着し、靴のサイズを申告する。毎日お世話になる靴。雨の中も泥の中も、どんな行軍にも一緒についてきてくれる靴。


 官品として貸与される靴は二種類あり、短靴(たんか)と半長靴(はんちょうか)という。短靴はオーソドックスな黒い革靴で、そのへんの靴屋に置いてあっても違和感がない普通のデザインである。ただ、市販の革靴と比べて硬さが尋常ではない。サイズがぴったりすぎるともれなく靴擦れになる。式典で制服を着るときは大抵これを履く。普段は居室の靴箱に保管し、あまり出番がないので、白い埃がうっすらと積もっていくことも少なくない(こういう埃は遅かれ早かれ営内班長に指摘される)。


 半長靴は脛の真ん中くらいまでの長さの編み上げ靴で、英語ではコンバットブーツとかアーミーブーツとか言われている。いわゆる軍靴のことだ。とにかく硬く、頑丈で、重い。厚い靴底に加えて、爪先部分には鉄板が仕込まれているから当然の重さである。慣れないうちは靴の重さで足首が疲れ果てて、ふくらはぎの筋肉がパンパンになる。課業中は基本的にずっとこれを履く。訓練も、食事も、教場での勉強中も、ずっと。


 そんなわけで水虫は自衛官の宿痾である。病状の程度の差はあるが、だいたいみんな水虫持ちだった。脱衣所の足拭きマットを踏むことで感染し、汗で蒸れた半長靴を長時間履くことで菌は毎日増加していく。酷くなると痒みを通り越して痛みに変わり、皮膚の裂傷で歩くのが困難なほどにもなる(本当の話)。教務係が各区隊の健康状態を点呼で報告するとき、「◯◯2士、水虫! その他健康状態異常なし!」と大声で叫ばれた哀れな同期が一人いた。大抵はそこまで酷くなる前に衛生班で薬を貰って治すのだが。


 みんな大なり小なり水虫持ちなので当然のごとく靴は臭い。そのため消臭対策には余念がない、というか、ならざるを得ない。各々自分の小遣いで消臭グッズや、靴用の乾燥機などを購入して対策する。悪臭は部隊の士気を低下させるし、隊員間の不仲の原因にもなるから割と厳しく指導される。「おめぇの靴臭ぇんだよ! ふざけんな!」と叱責されることほど情けないものはない。


 汚い話ばっかりになってしまった。あと靴の話で触れなければならないのは、なんといっても靴磨きのことである。アイロンと並んで、自衛官の日常の大部分を占める靴磨き。まず靴紐を外して砂や小石を落としてから、ブラシの毛先に靴墨を少しつけて、全体をしごいて綺麗にする。ここまではすぐに終わる。問題は爪先部分の「鏡面磨き」で、文字通り「鏡」のようになるまで磨かなければならない。手ぬぐいを使って優しく撫でるように靴墨を伸ばしたあと、微量の水を加えて靴墨の曇りをぬぐっていく。餅つきと同じで、定期的に加える水分の量が非常に重要である。靴墨と水分の配分を上手くコントロールしながら、フェザータッチのような優しい手つきで磨いていかないと決して爪先は光らない。市販の高価な磨き布やスポンジを使う者もいるが、高い道具を買ったとてすぐに爪先が光るというわけでもなく、コツを掴んだ者は手ぬぐいでもすぐに鏡面になるし、下手な奴はいつまでたっても光らないのが現実である。


 迷彩服のアイロンは割とすぐ終わるが、靴磨きは果てしない作業になりがちなので、気がつくと平気で二時間近く経っていたりする。時間を費やせば費やすほど靴墨の層は厚くなり、ツルツルの状態に近づくので、みんなとにかく時間をかけて磨くのだ。教育隊では毎朝の朝礼で服装点検があり、この時点で鏡面になっていないと「指摘事項」として糾弾され、「反省」することになる。たとえ前日に泥まみれの障害走をしていたとしても、ハードな匍匐前進を重ねて靴がボロボロになっていたとしても、朝礼の時点で靴が汚かったらアウトなのだ。支給される半長靴は二足なので、丁寧に育てる「本命」の靴と、外の訓練用の「二軍」の靴を上手く使い分ける必要がある。


 教育期間が終ってからも、日々の身だしなみとしての靴磨きは毎日行う。そんな生活を何年も続けていたので、自衛隊を辞めた現在も、靴の綺麗さ(汚さ)に、強迫観念じみた思いを抱いてしまう自分がいる。これはもはや呪いである。靴の汚さを指摘してくる上官なんてもうどこにもいないのに。普段仕事で履いている革靴の輝きが鈍くなってくると、心がざわざわして落ち着かないのだ。これは元自衛官あるあるの筆頭だと思っている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

迷彩色の思い出──陸上自衛隊追想 戸川昌 @TogawaAkira

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ