第105話 影鬼と女神
もうすぐ、日が暮れる。
一つの酒場が、夕焼けに照らされながら、開店する。
「……いらっしゃい。って、あれ? おかしいな」
一階の受付で、訪れる客を待っているのは、キュウビだ。
「……アンタ、俺様達がここに酒場を作ってるときに、近くに隠れて探ってた『影鬼』だよな。チラシを渡したのは覚えてるぜ」
「ええ、その通りです」
影鬼は、フードマントの内側から、真っ黒の杖を取り出した。
「協会本部の『宝』……『ブラック・ナーヴ』で間違いないな」
「この杖を見るのは初めてのはず。なのに名前まで……やはり面白いですね」
「……はぁ、『その程度』の面白さは、俺様としてもどうでもいいや」
キュウビは露骨にため息をついた。
「……で、地下に行けば、『女神』が待ってるぜ。どうする? その杖は置いていくか?」
「もちろん」
影鬼は、真っ黒の杖をカウンターに置いた。
キュウビは触れて、頷く。
「本物だな。間違いない……地下にどうぞ。くれぐれも呑まれないように」
「おや、あなたが注意をするのですか?」
「ああ。暴走されるのは俺様も勘弁だぜ」
「そうですか。それでは……」
「こっちはアンタがここに来るまでに仕掛けた『土産』の相手をしなきゃいけないんだ。ぜーんぶ分かってる。今は、ラトベルトの部下であることも忘れて過ごすんだな」
黒い杖『ブラック・ナーヴ』をアイテムボックスに入れると、キュウビは店から出ていった。
それを見た後、影鬼は階段を見つけて、降りていく。
廊下が見えて……その奥に一つの扉を見つけた。
影鬼はドアノブを握ると、回して、ゆっくりとドアを開ける。
中は、木造の調度品が置かれた高級な空間だ。
ただ、王国で見た物とは違う。見たことがないが、繊細さを感じるものばかり。
「いらっしゃい。そうか……やっぱり、ラトベルトは来なかったか」
チラシなら、ラトベルトに渡す前、穴が開くほど見た。
真っ白で艶のある長髪。
ノースリーブで、下は丈が短く、肌を晒す羽衣。
細く、白く、芸術品のような肢体。
周囲の美しい調度品や、並べられたワインや料理の全てを『脇役』とするような、幼さと美しさしかない女神の微笑。
だが、実物は、現実は、あまりにも強すぎる。
「どうしたの? 私はメドューサじゃないんだ。そんなところに固まってないで、ここにおいで」
自分が座るソファのすぐ傍をポンポンと叩く。
影鬼は、ゆっくりと歩いて、アグリの左隣に……少し距離を開けて座る。
「……フフッ♪」
そんな影鬼に、アグリは迫る。
影鬼の右腕を絡めとるように抱きしめて、そのまま右手を自身の太ももに押し付ける。
「うっ、おおっ!」
「逃げたら、だーめ」
人形の様な、美しく、危険な笑みで注意する。
「チラシ、ちゃんと読んできた?」
「す、隅々まで……」
「よろしい、なら、ルールは分かってるね。君が寝るまで、相手してあげる。寝ちゃったら、そこで終わり。わかった?」
首を傾げて、いじわるな笑みを浮かべた。
「わ、わかった」
「フフッ、それじゃあ、飲もうか」
アグリはグラスに、ワインを注ぐ。
……グラスは、一つだけ。
「あ、あの……」
影鬼は困惑する。
彼の右腕は、アグリの左腕によって絡み取られて動かせない。
左手でグラスを取ろうとしても、アグリはグラスを寄せない。
「飲ませてあげようか?」
「えっ」
「口移しでもいいよ♪」
「え、えっと――」
次の瞬間、アグリはグラスを傾けて自分の口に入れると、すぐに、影鬼の唇を塞ぐ。
「んぐっ!」
「んふふ~」
影鬼の方が座高が高いため、アグリは身を乗り出して、右手で影鬼の顔を撫でて口を上に向かせると、そのまま注いでいく。
「んっ、んっ……」
「……ふう」
飲ませ終わったアグリは、ニコッと。
「おいしい?」
「あ、ああ……」
「よかった」
アグリは右手で、頬を撫でていた右手で、影鬼の体を撫でる。
影鬼の反応は、それだけでゾクゾクしているのが分かるほどだ。
「フフッ、そんな調子でだいじょうぶ?」
「えっ……」
「良いワインも、美味しい料理もたくさん用意してる。最後まで頑張れる?」
首をかしげながら、煽る。
決まっている。
頑張れないと言うべきだ。
加減してほしいと言うべきだ。
最後まで味わいたいと言うべきだ。
「も、もちろんだ。が、頑張れ――」
次の瞬間、アグリの唇が影鬼の唇を塞いで、そのまま、アグリの舌が影鬼の口の中に入ってくる。
両腕で抱き着いて、影鬼が逃げられない状態で。
「おぐっ! おっ、おおっ……」
「じゅるるっ、ううん。ぷはっ……ほんとう? だいじょうぶ?」
憂いを帯びた瞳で影鬼を見る。
……そう、今のアグリに、遠慮も躊躇も一切ない。
女神を演じる『集中力強化』が強く行使されている。
ただ、『相手に夢を与える女神』という、その演目に従って動く。
もうこうなった以上は、アグリにも止められない。
雑念が一切入らない。
アグリはもちろん男であり、普段は自意識も男で間違いない。
しかし、今は……。
「本当に? ほんとうにだいじょうぶ? まだ、ワイン一口しか飲んでないのにさぁ」
甘い声で、嘲るとともに煽る。
「え、ちょっと……んっ!」
少しだけパスタが巻き付いたフォークが、口に入れられる。
驚く影鬼の耳に、アグリはふーっと息を吹きかけた。
ゾクゾクしている影鬼の耳元で、ささやくように……。
「ねえ、取り返しがつかなくなってもいい?」
フォークを抜いて、手で顎に触れて咀嚼させる。
「帰った後、どれだけ強いお酒を飲んでも、私のことが忘れられないけど、いいよね?」
影鬼は、僅かに、頷いた。
アグリはそれを聞いて微笑むと、右手で、影鬼の目元を覆った。
「ねえ、今までの自分をイメージして」
影鬼の脳裏に、今までの、ラトベルトの部下として勤めてきた自分が思い浮かんだ。
「その自分に、別れを告げちゃおっか」
「……あれ、言えない?」
「怖くなってきた?」
「体、震えてるよ?」
「あはは、暴れてもダメだよ?」
「ぎゅーっとしてるからね?」
「分かってると思うけどさぁ」
「魔法は何も使ってないよ?」
「洗脳も、催眠も、使ってないよ?」
「さっき、頷いたよね」
「取り返しがつかなくなっても、いいって」
「あー、だめだよ?」
「ルルティマ・ソスタ」
「ここは『最後の停留所』だよ?」
「ここを越えたら、後は、『最後』しか残ってないからね?」
「……じゃあ、もういいかな?」
「私が代わりに言ってあげる」
「さようなら♪」
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