0部 邪の胎動

 ここは、とある【セカイ】を管理している神の一柱が構築した、神的領域。

 このセカイには本来ない、別のセカイから譲り受けた魂を、このセカイに適合させる処置をおこなうためだけに創られた場所だ。


 領域の形態は、台所。

 人間が料理をするために動く、あの、台所だ。

 とあるセカイでは、炊事場とも言うし、キッチンとも言う。


 そんな台所に、ふわふわモコモコしたヒト型の光が、大きなボウルを抱いて立っている。

 その周りをぐるぐるぐるぐる走り回っているのは、小さな、でも、同じくふわふわモコモコしたヒト型だ。何体も何体もいて、まるで無邪気な様相。


 ヒト型に抱えられているボウルの中にあるのは、とある魂。

 今の今まで、この魂はこの台所で、セカイに適合できるように調理されていたのだ。


 台所に、すでに置いてあるのは、人間の形にくり抜かれた型。

 その型は、今日これから産まれてくる赤子の、誰か一人の生命――つまり、これから流し込まれる魂の器だった。誰が選ばれるかは、完全にランダムだ。


 ヒト型が、さあ!と、魂を人間型に注ぎこもうと、ボウルをゆっくり傾けて――止めた。

 念のために、もう少し掻き混ぜて、魂をしっかりと解れているか、最終確認をしようと思ったからだ。解れていないと、もしかしたら、上手く器に魂が適合しないかもしれない。

 だってこの魂は、本来、このセカイにあっていいものではないのだから。

 ヒト型は、ボウルを型の脇に置き、その隣にあったを手に取る。


 魂には、輪郭がある。

 そのセカイで生まれた魂は、そのセカイの中でしか巡ることはできない。

 本来、魂はセカイを渡ることはできないのだ。

 しかし、方法がないわけではない。

 輪郭があるからダメならば、輪郭をなくしてしまえばいいのだ。

 トロットロに解して、溶かして、融かして、滑らかにすればいい。

 ここにある魂も、そうして、セカイを転じてきた。


 ひと頻り、撹拌機で混ぜたヒト型は、さあ!と、改めてボウルを両手で持つ。

 型の真上で、ゆっくりと、傾けられた。

 とろぉりとろりと、異世界からやって来た魂が、この世界の器へと注がれていく。

 空っぽだった器が、どんどん、満たされていく。

 そして――


 おぎゃあ。おぎゃあ。おぎゃあ。


 ――魂がすべて注がれたとき、立派で健康的な産声が聞こえてきた。

 音の発生源は、台所からも見える位置にある、一台の真四角の箱。

 そこでは、今ちょうど産まれたばかりの赤子が、母に抱かれて泣いていた。

 この箱は、本来、このセカイには、まだ存在していない。

 けれど、この領域を創った神は、別のセカイを管理している仲良しの神のところへ遊びに行ったときに、見て、聞いて、知っていた。神として、創ることは容易かった。

 この箱が当たり前のように存在しているセカイでは、これをテレビと呼ぶ。


 そんなテレビの周りでは、小さなヒト型が、キャッキャと燥ぎ回っていた。

 赤子の生誕を喜んでいるのだ。

 なぜなら。

 この赤子こそが、今、邪に蝕まれようとしているセカイを救う、となる存在なのだから。

 ヒト型も、近くで英雄の誕生を見に行こうと、ボウルを型の脇に置いた。


 ――バチンッ!


 と、その刹那。

 嫌な断絶音がした。

 テレビが真っ暗になっている。

 赤子誕生の、幸福な映像が消えている。


 不穏。


 ヒト型は、悩むことなく、警戒した。

 すぐにそうしたのは、ヒト型がこの領域の主である神に創られたからだ。

 だから、わかる。

 おかしいと、わかる。

 あり得ないと、わかる。

 この領域で予期せぬことなど起きないのだ。

 それが、起きた。


「――ツナガッタ」


 暗く、澱んだ、極めて耳障りな声がした、次の瞬間。

 テレビから、赤い液体が溢れ出た。

 ゴボッと、勢い余って溢れ出たかのように。

 ちょうど正面にいた小さなヒト型が、もろに被ってしまい真っ赤に染まる。

 そして、その小さなヒト型は、崩れた。

 抗うこともできず。

 足掻くこともできず。

 というか、反応らしい反応をすることもできず。

 呆気なく。

 崩れてしまった。


 小さなヒト型たちが、俊敏な動きでテレビから距離を置く。

 大きなヒト型も、大事なボウルを型の脇に置き、テレビのあるほうへ向かった。

 その間も、ゴボッ、ゴボッ、とテレビは鮮血を吐く。

 大小問わずヒト型たちは、ファイティングポーズを構えた。

 戦わなければならない。

 間違いなくこれは、邪の仕業だから。

 神の領域への干渉なんて、神以外にできることではない。

 そして、こんなことをする意味がある神など、邪神のほかにいないのだ。


 戦う。

 ゴボッ。

 戦う。

 ゴボボボッ。

 戦――

 ――

 ヒト型たちは、すべて、真っ赤な砂に変わってしまった。

 戦う、なんてことは始まらなかったのだ。

 幕開けなどせず、幕の裏で片が付いてしまった。


「――ゼンシン。ヤツ、モ、オロカダ。ワザワザ、コノ、セカイ、ニ、ソンザイシナイ、モノ、ヲ、ツクル、トハ。オカゲ、デ、マド、トシテ、ツカエタ、ガ」


 テレビから吐き出されていた血は、相当量に達していて、血だまりと化していた。

 その血だまりが、にゅうんと盛り上がり、一つの存在となる。

 それはまるで、どこかのセカイで言うところの、てるてる坊主のようだ。


「――サテ。シンニュウ、ト、ドウジ、ニ、ココ、ハ、ワレ、ノ、リョウイキ、ヲ、カサネテ、フウジタ。タマシイ、ハ、カエシテ、モラウ、ゾ」


 鮮血のてるてる坊主の裾が揺らめく。

 と、血を噴くだけだったテレビに、とある映像が映し出された。


 男が倒れている。

 その傍では、一人の少女が泣き崩れている。

 男の着ている白のシャツは、脇腹の辺りが濃い赤に染まっている。その色はどんどんと深くなっていて、変色の範囲も刻々と広がっている。今まさに大量流血しているのだ。


 その男は、今ここにある、魂の正体。

 この魂が本来あるべきセカイで、迎えた、あるべき結末。

 それを、異なるセカイの魂を欲していたこのセカイの神が、魂のあるべきセカイを管理していた神に頼み、譲り受けてきた。

 転生という神術で、魂に世界線を超えさせたのだ。


 転生をおこなった神――つまり、この領域を創り出し、先ほどまでいたヒト型を創った神は、転生すべき魂は偶然に選ばれたものだと思っているだろう。

 自分が魂が欲しいと懇意の神に相談し、その神が了承したときに、ちょうど、都合よく命が事切れた魂が選ばれたものだと。


 しかし、実際は違う。

 この魂は、選ばれたのだ。

 この魂が欲しいと、明確な意志によって。

 明確な、企みによって。


「――タマシイ、ハ、ジャ、ニ、ソマル、ノダ」


 テレビから、真っ赤な管が無数に出てきた。

 それは、テレビの中で倒れている男の、脇の傷口から伸びていた。

 管は宙を揺らめきながら台所まできて、人間型に収まっている魂に挿される。


 じわぁり。

 魂が、赤く、黒く、変色した。


「――サァ。アラユル、セカイ、ヲ、ジャ、ニ、オトス……ソノ、マクアケ、ダ」


 邪の胎動が、ここに、始まった。

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