1部1章 転じさせるための毒夢 1

 重たいドアを開くと、真っ先に出迎えてくれたのは、キュッキュという摩擦音だった。

 もう随分と聞き慣れたその音は、一人の少女の努力の証である。

 カノジョが今日も頑張っていることの嬉しさに、誇らしさに、自然と口角は上がった。


「あ、お疲れ様ですっ! 社長っ!」

 ドアを完全に開くと、今度のオーディションのためのダンス練習を中断したカノジョが、汗に濡れた顔に満面の笑みを浮かべて挨拶してきた。

「お疲れ様。今日も頑張ってて偉いぞ」

「いえっ、偉いなんてとんでもないですっ! 頑張ることしかできませんからっ!」

 胸の前で両手ガッツポーズをするカノジョ。黒色の練習着は、肌への張り付き具合から、ぐっしょりと濡れていることがわかる。

「そうだな。でも、今日はもう休みにしよう。オーディションは明日なんだから」

「……そう、ですね。わかりましたっ!」


「……物足りないんだな?」

 歯切れの悪かった返事、カノジョの頑張り屋な性格、そして……オレの会社に候補生として所属してからまだ成果らしい成果が上げられていないこと、カノジョ自身の年齢やほかアイドルの華々しい活躍などによる焦りがあることはわかっている。

 えへへ、とカノジョは誤魔化すように笑った。

「前にも教えたが、休息だって立派な努力なんだぞ。むしろ最近のスポーツ医学では、いやスポーツに関わらずあらゆる分野では、休息や睡眠こそが成長に欠かせないとされているんだ。だから、キミが積み上げてきた努力を花開かせるためにも、ちゃんと休まなきゃ」

「はい、はい、そうですね、ごめんなさい……」


「わかったなら、今日はもう終わりだ。送っていくから、着替えてきなさい」

「すぐに準備しますっ」

 俊敏に、深々と頭を下げたカノジョが、オレの横を通ってレッスン室から出て行く。

「慌てなくていいからな!」

 華奢な背中に声を掛けたら、機敏に振り返ったカノジョは「はいっ!」と快活に返事をして機敏に頭を下げてまた機敏にこちらに背を向けて駆け出し、盛大につまづいて転びそうになった。つまづきそうなものは何もない、ただのエナメル質の廊下なのだが……。

「お~い、大丈夫か~」

 笑いを含んだ声で尋ねると、顔だけで振り返ったカノジョは照れ臭そうにはにかみながら頷き、今度はちゃんと走っていった。


 本当に愛嬌のある子だ。

 それに、愛嬌だけではない。

 魅力はほかにもたくさんある。

 歌もダンスも、演技だって、毎日毎日基礎からしっかりと磨いている。容姿だって、ライバルたちと比べてずば抜けているわけではないが(そもそも、ずば抜けた容姿、なんてものないとは思うが。外見の好みなんて人それぞれのはずなのだから)、劣ってもいない。

 それなのに……。


 カノジョには、アイドルとしての仕事がない。


 芸能人として――事務所に、芸能関連の会社に所属していれば、誰でも名乗ることはできてしまう世の中なわけだから、この言葉にはもう昨今、エンタメ業界でそれほどの重みはないのだけれど――まったく認知されていない。

 現状、残酷な言い方をするなら……ただのもどき、だ。

 動画配信もやってもらってはいるが、そちらも鳴かず飛ばず。

 オーディションも、受かったことがない。


「……はぁ……って、いかんな、いかんいかん」

 溜息をついてしまったことに反省する。

 カノジョは頑張っている。努力している。

 それでも、活躍できない、スポットライトを浴びられない、それが芸能界。

 本人が頑張っているのに、所属してもらっている会社の社長がへたれていてどうする。

 とはいえ、とはいえだ。

 社長しか吐けない溜息というものもある。


「……いつまでも売り上げが立ってないのは、やばいよな」

 オレがこの会社を設立してから、事業年度でもう三期目。

 さすがにそろそろ売り上げを立てたい。借入は一切していないし、赤字がずっと続いてもオレ個人の貯金を資本にすれば経営自体はやっていけるが、それではダメに決まっている。

 一人でも多くの才能あるアイドルや声優を輝かせ、そして、守るために起業したのだから。

 事業で売り上げを立てて、それを再投資して事業拡大し、そのうえで内部留保もちゃんと貯めていって財務状況を力強いものにしていかないと、何かあったときに守りたいものも守れない。

 そのためには、まず、たった一人の所属タレントであるカノジョに頑張ってもらわないといけないわけだが……。

「って、プレッシャーかけるのだけは絶対にダメだぞ」


               ※


 アイドルが好きだった。

 声優が好きだった。

 元は、根っからの、ただのどこにでもいるオタクだった。

 外資系の投資銀行で、朝も夜もわからなくなるような、時間軸がバグったかのような過酷な生活を送る日々の中、唯一の癒しが推し活だった。

 圧倒的な競争社会で、強気を通り越して怖いと感じさせてくるような同僚や先輩後輩と仕事をしていく中、手が届かない、届いてはいけない存在だとわかっているからこそ、推しは輝いて見えた。

 同じ人間という生き物だけど、自分たちとは違って醜くないように見えた。

だから。

 年に数千万を、調子のイイときには億以上を自らの報酬として稼ぎながら、ただただ推し活をする――そんな日常で、人生で、オレは満足していた。

 でも、受け入れ納得していた日常を、自分の意思で変えた。

 推しの一人が、自殺したからだ。


 声優だったその人は、オレが好きで遊んでいたアイドルゲームの演者だった。

 どうして死んでしまったのか。その理由の正しいところは、ただのオタクでしかなかったオレにはもちろんわからない。わかっていいものでもない。

 ただ、オタクだからこそどうしても気になってしまい、ネットで調べてみた。

 所属事務所などから、原因とされるような発表は、当然なかった。

 有名な週刊誌でも、関連記事は書かれていなかった。

 見つけたのは、親交のあった声優による、暴露系配信者へのタレコミ動画だった。

 それによると、どうやら自殺の原因は、生活苦だったらしいのだ。


 生活苦?とは思った。

 投資銀行という職であることから、エンタメ業界のことも、金を動かすという目的で情報収集してみたことはあった。

 だから、疑問でしかなかったのだ。

 昨今、この国のエンタメ産業は潤っているはずだったから。

 時代と共に蓄積してきた個性的な知的財産に世界のエンタメファンが食い付き、一気に人気が爆発したのだ。今や、有力な知的財産(キャラクターなど)とタッグを組めたかどうかで、ほかの業界――例えば小売りなど――の企業の優劣すら左右するほどに。


 しかし、どうやら問題はそこにあった。

 潤っているからこそ、だったのだ。

 潤っているということは、そこに多額の金があるということ。

 資本主義に生きる者であれば、当然、そこは狙っていく。狙っていかないといけない。

 結果、どんどんと、金のなる木を狙って様々な企業が、人間が参入してくる。

 既存と新規。

 手を組む者もあれば、真っ向から戦う者もある。

 競争は激化する。

 自分もイイ思いをしたいと、そこで蠢く者たちの人口密度は上がっていく。

 となれば、非情な振るい落としが発生することは必然。

 それなりに売れていた、仕事があったはずなのに、いつの間にか失っている。

 ただその仕事が好きでやっていたのに、好きだけではいられなくなっていく。

 お金のことなんて考えなくてもプロとして邁進していれば生活できていたはずなのに、プロが(プロのような人が)どんどん増えて、限られた仕事の奪い合いが起き、それまで活躍できていたプロの頭の中もお金という言葉に蝕まれていく。

 競争は、嫌でも、人を生臭いものに変えてしまうのだ。


 オレはそれをとことん知っていた。

 だから、お金のせいで自殺したのだと聞いて、納得できた。

 だから、自分で芸能関係の会社を設立した。

 理想主義でいられないことを知っているから。

 夢物語は呆気ないものだと知っているから。

 理想主義も、夢物語も、守れるものなら守りたくなったのだ。


 たったったっ――

 遠くから足音が聞こえてきた。

 カノジョが戻ってきたのだ。

「……笑顔笑顔。暗い顔なんて見せるなよ……」

 呟いて自己暗示をかけ、オレは笑顔を向けた。


               ※


「――ヨウヤク、ジャ、モ、ナジンデ、キタ」


 乗っ取った神域の中、血だまりから創られた鮮血のてるてる坊主が、魂で満たされている人型を見下ろしている。人型を満たす魂には、何本もの血管のような気色悪い管が差し込まれていて、元々は純白だった色がじわりじわりと転じている。

 汚く、汚らわしい、赤黒い色に……。


 血管を辿って目線を動かすと、そこにあるのは、一台のテレビ。

 本来であれば、まだこの世界にはないものだが、この神域を構築した神が別の世界線を管理している神と親交があるからこそ存在を知っていたため、としてここにも創ってしまったのだ。

 それは、邪からすれば、愚の極みだった。

 恐らくは自分の構築した神域に何かが干渉できるわけがないと高をくくっていたのだろうが、そんなもの、にとっては関係ない。


 邪は自らの復活のため、あらゆる世界線――ありとあらゆるセカイに、力を、種を撒いている。神々がほんの少しでも隙を見せたとき、それを利用するために。

 今回、このテレビも、隙の一つだった。

 本来であればこの世界には存在しないもの、しかし、別世界にはすでに存在しているものを、この神域に創ってくれたおかげで、別世界で撒いていた邪力を運用し、この神域へと干渉することが叶ったのだから。


「――イマ、ノ、トコロ、ハ、ジュンチョウ、ダ」


 神域を取り戻すために、この世界の管理者である四柱が動いている気配はない。

 まあ、それもそうだ。

 世界のほうでは――地上のほうでは、元々この世界に撒いていた邪が、今の理を覆したいという野心によって萌芽し、それなりの影響力になっているのだから。

 血肉をもって育まれた芽は、今では、邪の忠実なる従僕を顕現させられるほどの力にまで育っている。管理者たる神々の従僕たちを虐殺できるほどには。

 だから、神域がこうなっていることに気付けないのも、当然といえば当然のこと。

 地上に蠢く邪の対応に追われて、それどころではないのだ。

 とはいえ、気付くのも時間の問題だろうが。


 再び、変色し続けている魂を見る。

 その移ろいは、じわぁ、じわぁ、と極めて緩慢だ。

 気付かれる前に、侵す速度を上げたくもなる。

 しかし、それはそれで、計画に支障をきたすだろう。

 今、この魂を邪に転じさせたところで、器のほうは未熟も未熟だからだ。

 ただの十二、三歳の、田舎町の少年を使えない。

 それなりの力を持つまで育ち、それなりの規模の都市にいる。そうなってから、邪に転じさせたほうが、計画の達成確立は大いに高まるだろう。


 だから、今はまだ、待ちでいい。

 魂の邪へ転じる速度も、これくらいでいい。

 それに、よく言うではないか。緩やかに浸透させたほうが、より深く、より細やかに、染まっていくと。


 だから、これでいい。

 これで、いい――。








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