2部3章 行商隊が訪れるまで、およそ三ヵ月。日常変化の兆し 4
まずは、病気の鶏の世話をすることにし、農具置き場へと向かう。
……元気になってるといいんだけど。
摘んできた薬草がちゃんと効いていて欲しい。
そう思いながら歩いていると、農具置き場のほうから鳴き声が聞こえてきた。
……あの子、治ったのかな⁉
溌剌とした声は、元気な鶏の証。
昨日は、こんな風には鳴いてなかった。
こうも力強く鳴けるようになったということは、無事、薬草が効いたのだろうか。
期待が高まる。
オレたち兄妹は、農具置き場へと入った。
自分たちで立てた簡易な柵の内で。
あの子は元気に駆け回っていた。
「お兄ちゃん、この子、元気になった?」
「うん、元気に思えるけど」
答えながら、オレは柵の端を開け、中へ入り、すぐにまた柵を閉じる。
しゃがんで、糞や吐しゃ物を探す。昨日、明らかにおかしかった糞を見れば、体調がよくなっているかどうかも推測できるはずだ。吐しゃ物の有無も、同じく思考の材料になる。
……糞は、まだ少し黒っぽくてべちゃっとしてるけど、だいぶマシになってきたか?
まだ、これまでの養鶏で嗅いだことのないような臭いを発しているけれど、糞便の状態は随分とマシになったように思える。
……羽毛の様子もだいぶ落ち着いてきている、ような?
昨日と比べたら、逆立ち具合も大人しくなっているように見えるが、どうだろう。
鶏の病について詳しい知識があるわけじゃないから、オレが今ここでどれほど細かく検めてみたとしても、結局、推測の域を出ることはできないが。
だいぶ、よくなっているような気はする。
……あの薬草、凄い効き目だったってことかな。
だとしたら、めちゃくちゃ幸運だったということになる。だってナーナも鶏に関する知識はないのだから。病に対する正確な知識のない者たちだけで摘んだ薬草が見事に一発的中したなんて、運に恵まれていたとしか言いようがないだろう。
……もう、みんなのところ、戻してもいいのかな。それとも、まだここにいたほうが。
考えた末、もう何日かは、この子はここにいてもらうことにした。
独りぼっちなのは可哀想だけれど。
「お兄ちゃん、どぉ?」
「うん。よくなってるとは思うけど、念のため、もう何日かはここにいてもらう」
「え~、独りぼっちぃ?」
「可哀想だけどね。ほかの子のためにも、それが一番いいはずだから」
「ん~」
悲し気に唸ったシルキア。
でも、しょうがないことだ。
「ちゃ~んと治って、ちゃ~んと元気になったら、みんなと一緒になれるから」
「うん、うん」
「薬草入りのエサ、あげよっか」
「はぁ~い」
妹が、昨日地面に置いたエサ鉢を両手で持ち上げる。
その間に、オレは柵の端を開け、養鶏区画から出ておく。
柵の傍に置いたエサ鉢から、昨日作った薬草混ぜ込み団子を、鶏の前に投げた。
ついばむのを見届けてから、オレたちは農具置き場から外に出た。
※
ほかの鶏たちのお世話も終えたとき、太陽はだいぶ高いところまで昇っていた。
燦々と降り注ぐ陽射しを浴びていると、汗は次から次に溢れ出てくる。
……喉、渇いたな。
仕事に出るまでの間に、二杯も飲んだのに。
昨日よりも暑いせいか。
「お兄ちゃん」
仕事を開始したときと比べたら随分と弱々しい妹の声。
「お水、飲みたい」
「……そう、だな。家、戻ってハーナさんにお願いしてみよっか」
「ん……」
オレたち兄妹は、養鶏場からタリウス家へと向かい、歩き出す。
水をもらえるかわからないけれど、寄ってからナーナの仕事場に向かおう。
……オレたちがこの村に来てから、雨、一回も降ってないし、無理かもなぁ。
水はもらえないかもしれない。
このストラクは、慢性的に水不足だ。それは、ここでの生活を始めた日、ハーナさんとナーナから教えられた。飲料を含め、村の生活用水は貯蔵した雨水で賄っているのだが、最近は晴天ばかりで、村民への配給も絞らなきゃならない状態に陥っているのだと。
水浴びなんて、もってのほか。身体を清潔に保つ手段は、濡らした布で拭くのが基本。身体が痒くなって耐えられないときは、痒みに効果のある薬草と灰を混ぜて作った粉末を肌に
それほどまでに、この村は水不足に喘いでいる。
……コテキでは考えられないことだよな。
歩いてすぐの範囲に【イツミ川】が流れていたおかげで、水には困らなかった。ここと違って井戸もあって、水汲みに制限がかけられていることもなかった。
……地域によって、ほんと、いろいろあるんだよなぁ。
これは肝に銘じておくべきことだ。
もう故郷はないのだから。
タリウス家に着いた。
「ただいまぁ~」と、帰還を報せながら玄関扉を開ける。
パッと目に入ったところ、いたのはフィニセントさんのみ。
椅子に座って縫物をしているカノジョは、チラと目線だけでこちら確認すると、またすぐに手元を見て仕事を再開してしまう。同居人が帰ってきたのに、ひと言も発することなく。
「あのさ、ハーナさんは?」
縫っていた手が止まる。
「村役場に行っているわよ」
「あ、そうなんだ……う~ん、村役場まで聞きに行くのはなぁ」
行けなくはないが、正直、面倒くさい。
面倒くさいことをして、余計な汗をかいて、余計に喉が渇くのは、なんか嫌だ。
「シルキア、ハーナさんいないし、我慢しよっか」
「えぇ~」
「お兄ちゃんも一緒に我慢するから。なっ?」
「むぅぅぅ~~~う」
膨れっ面になられても、いないのならしょうがない。
勝手に水瓶から汲むわけにはいかないのだから。
「……何?」
「……え?」
目を向ければ、フィニセントさんと視線がかち合った。
相変わらずの無表情に、平淡な灰色の瞳だ。
同じくらいの年齢だろうに、本当、まったくそうは思わせない面持ちに眼差し。
「どうかしたの?」
「あ、あ~、その、喉が渇いちゃって」
「……水なら、瓶にあるじゃない」
「ある、けど。えぇ⁉」
掬って飲めばいいじゃない。
そう、言っているのだろうか。
できるわけがない。
フィニセントさんが、短く息を吐くと、おもむろに立ち上がった。
台所へ向かっていく。
「え、え、フィニセントさん?」
「…………」
「だ、ダメだよ! そんなっ、勝手にっ!」
「…………」
フィニセントさんは、お椀を右手に、柄杓を左手に、水瓶の前に立つ。
「フィニセントさん⁉」
「…………」
カノジョは変わらず無視して、水瓶の蓋を開け、柄杓でお椀に水を掬った。
一回、二回、三回、と。
そしてお椀に口を付ける。
お椀から離れた薄い唇は、明らかに濡れていた。
ごくり。
思わず、喉が鳴ってしまった。
フィニセントさんが近づいてくる。
そして――シルキアにお椀を差し出した。
「ほら、飲みなさい」
シルキアの両手がお椀に伸びる。が、途中でぴくんと止まった。
見上げてくる妹と目が合う。オレの許可を求めているのだ。
……いいのかな、飲んでも。いや、でも。
わからない。飲んでいいのか、ダメなのか。
「私はもう、いらないわ。でも、汲み、口を付けてしまった水は、もう瓶に戻せない。あなたたちが飲まないというのなら、外に出て土にぶちまけるだけよ?」
「あ、う、あう……」
「……そう。いらないのね」
「ああっ、待って待って!」
「……どうするの?」
カノジョの言っていることは正しい。
一度汲んだ水は、もう瓶には戻せない。戻さないほうがいい、汚くなるから。
そう考えれば、もうこのお椀の水は、今、処理するしかないのだ。
そして、カノジョは本気で、捨ててしまうだろう。
だったら。
だったら、いいんじゃないか。
飲んだって、いいんじゃないか。
そうだ。
いいんだ。
それに……汲んだのは、オレでもシルキアでも、ないし。
「飲み、ます。妹に、あげて、ください」
フィニセントさんが、再びシルキアにお椀を差し出す。
兄が許可したから、今度は妹は両手で受け取った。
んくっ、んくっ、んくっ――喉の鳴る音が続く。
「お兄ちゃん、はい、あとはお兄ちゃんのぶんっ」
差し出されたお椀の中には、半分ほどの水が揺れている。
「……ありがとう」
受け取る。
波打つ水面には、歪んだ自分の姿。
……ええい、何を躊躇ってるんだ!
妹も、もう飲んでしまった。
この期に及んで、何を躊躇うのか。
思い切る。ガッと口を付け、一気に喉へ流し込む。
涼やかなものが、体内を潤していく感覚。
あまりにも心地好かった。
「――っぷはぁ」
飲み終え、お椀を口から離せば、自然と感激が吐息に混じって漏れ出た。
「お椀」
差し出された華奢な右手に、オレはお椀を置く。
「その、ごめん……」
「謝られることじゃないわ。私が飲みたくて飲んだ。あなたたちは余りを飲んだ。罪があるというのなら、私でしょう。もしもあの母娘が気付いて、咎めるようなことがあったなら、あなたたちは黙っていなさい」
「ッ……」
罪、という言葉を聞いたからか。
罪悪感が芽生えた。
オレたち兄妹のせいじゃない、と考えた。
見透かされているのか。
気まずい……。
フィニセントさんが、台所へ向かう。
お椀と柄杓を元あったところへ戻し、水瓶の蓋を閉めた。
一見、これで元通りか。
カノジョはまた椅子に座り、縫い仕事に取り掛かった。
「……まだ、何か用事があるのかしら」
「え、や、ううん」
「……なら、行きなさい。やれることを、やってきなさい」
「……うん。シルキア、行こ」
妹に手を差し出す。
キュッと、握り返してくる。
「ファムちゃん、お水、ありがと」
「……勝手に飲んだこと、外で人に言ってはダメよ。私も、あなたたちも、外から来た者たちであることは、今も変わらないのだから。無駄口は、評価を下げ、怒り憎しみを生むわ」
「うん、うん、わかった。フィニセントさん、本当にありがとう」
オレもお礼を告げ、妹の手を引いて歩き出す。
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