2部2章 行商隊が訪れるまで、およそ三ヵ月。大体いつも同じ一日 6

 ナーナの工房は、家から十秒もしない場所に建っている小屋のことだ。

 と、ちょうど小屋の戸が開いて、中から女性が出てきた。アリラさん。村長さんの配偶者であり、この村一番の権力者。村長さんも逆らえないからだ。いつだって理路整然としていて、でも、優しく温かく器の広い人。かなり高齢だが、日々、農作業に精を出している。

 そんなカノジョの日焼けした左手は、目も覚めるような爽やかな濃緑色を基調に、所々に橙色が散っている草履を持っていた。濃緑は頑丈さとしなやかさを兼ね備えた蔓草で、橙色はハーブの一種だ。ナーナの草履は、消臭や虫除けのためにと、ハーブを混ぜてある。


 オレは、閉まった小屋の戸を、軽くノック。

「――はーい、ど~ぞぉ~」

 ナーナの声がすぐに返ってきた。

「お邪魔しまぁす」と言いながら、戸を開く。

 ムワッと襲いかかってきた濃厚な香りに、いつも通りちょっとした眩暈に襲われた。

 基本の材料である蔓草と、多種多様なハーブの香りだ。農具置き場と同じくここも壁の作りが粗雑で隙間があるから常に空気の流れはあるけれど、小屋そのものがかなり狭小のせいで香りは逃げるよりもどんどん溜まっている。だからイイ香りも、濃厚で、キツい。


「ありゃ、アクセルくんにシルキアちゃんじゃ~ん。どうした? 草履、壊れちゃった?」

「ううん、壊れてないよ。村長さんから話、聞いてない?」

「え? 今日だったら、話してないっていうか、会ってもないけど?」

 きょとんとした表情で、ナーナは小首を傾げる。ハーナさんと同じ赤毛は、ハーナさんと違って短くバッサリ切り揃えられているが、それでも、毛質が柔らかいからか、ちょっとした頭の動きだったのに、毛先が軽やかに揺れた。なんか、そんな些細な動きだけで、お姉さん感が出るのだから不思議である。そう感じるのは、オレだけだろうか。


「そっか。あのさ、えっと、鶏がさ、一羽、体調崩しちゃったんだ」

 状況を説明していく。

 うん、うんうん……と、ナーナは真剣に相槌を打ってくれる。

 ひと通り話し終えると、「オッケー」とカノジョは立ち上がった。

「すぐ行こっか。まずは家に寄って、薬草学の本、持って来よう。記憶してる種類もあるけど、万が一間違えて毒草使っちゃったら大変だから、本見て確認しながら採取だねっ」

「仕事、大丈夫? すぐにやらなきゃいけないことあったら、待ってるよ?」

「大丈夫。さ、今日中に用意しておく草履は、昨日までにもう出来上がってるから」

「そっか。仕事が早いね」

「まぁね。草履作りなら、どの町行っても職人名乗れる自信はあるよ!」

 自信満々だと、ナーナは右拳で胸の中央を叩いた。それほどの力ではないはずなのに、胸が上下に揺れる。行動を目で追っただけ、動くものをつい見てしまっただけ、それでもなんだか見てはいけないものを見てしまった感がして、オレはパッと目線を逃がした。


 あれだけ大きいと、ちょっとした動きで、ああも揺れるんだな……。

 ネルがよくモエねぇの胸を触っては嫌がられ怒られていたことを思い出す。

 モエねぇのおっぱいは大きくて柔らかくて気持ちいいとネルが触って怒られるたびに嬉しそうに話していたが、モエねぇのものより大きいだろうナーナのものだと、どんな感触なのだろう。いや、モエねぇのものに触ったことないから、オレが触っても比べられないが。

 なんてことを考え、股間が熱くなるのに気づき、自制する。

 見てはいけないものは、見てはいけない。

 触ってはいけないものは、触ってはいけない。

 でも頭の中で考えることは自由だ。

 が。

 自由だとしても、時と場合というものはある。

 うん。


 オレは溜まった熱を払うように、その場で機敏と後ろを向く。

「――痛っ」

 と、すぐ背後にいたシルキアに、手が当たってしまった。

「わあ、ごめんっ。ごめんごめんっ」

 頭を両手で擦っている妹が、頬を膨らませた怒り顔で見上げてくる。

 オレは胸の前で両手を合わせ、繰り返し謝る。

 ああ、バカなことをやってしまった……。

 おっぱいのことなんて考えたせいだ、まったく。


               ※


 許してくれたシルキアを先頭に工房から出たオレたちは、まずは薬草学の本を取りに家へと戻った。家ではフィニセントさんが箒を手に掃除をしていた。

「たっだいまぁ~。ファムちゃん、調子はどぉ~だい?」

 早速、ナーナが絡んでいく。

「…………」

 対して、フィニセントさんは無視だった。

 それどころかこちらに背を向けてしまう始末。

「あたしたち、薬草学の本を取りに来たの~。これから薬草摘みに行くんだけど、ファムちゃんも一緒に行かなぁい?」


 えっ、誘うの?

 なんて思いもしたが、感じ悪いし、口には出さない。

 フィニセントさんにどう思われようが、別に構わない。オレたちをどうでもいいと思っているのはカノジョのほうなのだから。ナーナに、嫌なヤツ、と思われたくなかったのだ。


「…………」

 変わらず無視のフィニセントさん。

 感心できることではまったくないが、こうも無視できるとは逆に凄い。相手がどれだけ嫌いな人だとしても、つい応じてしまうのが人間だと思うのだが。

「あたし、今から本取ってくるからさ、戻ってくるまでに決めてねぇ~」

 じゃあ二人はここで待っててね~と言い、ナーナが自室のある二階へと向かう。


 …………。

 ………。

「……あのさ、フィニセントさん。もう少し、ちゃんと、話しなよ」

 余計なことだ。

 言わなくていい。

 言っても無駄だ。

 発言に対する強い葛藤は当然あった。

 それでも言ったのは、できれば変わったほうがいいと思っているから。

 お世話になっている人たちに失礼な態度はやめるべきだし、村の人たちがフィニセントさんを厄介者扱いするようになったら嫌だから。村の人たちはイイ人ばかりだし、今の無愛想な態度を続けてもハーナさんとナーナがいる限り酷いことにはならないと思う。

 だけど、人間、何が起きるかなんてわからない。

 取り除ける芽なら、取り除いておくにこしたことはないはずだ。


「……迷惑はかけていないつもりよ?」

 返事があって、ちょっとビックリ。

 オレも無視されると思っていたから。

「それは、そうかもしれない。でもさ、感じ悪いとか思われたら、嫌じゃない?」

 確かに、フィニセントさんは迷惑はかけていない。

 今だって、掃除という与えられた仕事を、役目をこなしている。いつもの流れだったら、この家の掃除が終わったら、次は隣家へと移り、村役場までやっていくはずだ。今のところ誰からも注意の声は上がっていない。やるべきことはやっている。

 とはいえ、村人と仲良くなっているかと言えば、まったくそんなことはない。


「……あら、もしかして心配してくれているの? 私が爪弾きにならないかって」

「そうだよ」

 迷うことなく、オレは返した。

 心配しているかいないかの二択なら、心配しているに決まっている。

 カノジョを友人だなんて、オレもまだ全然思えていないけれど。

 友人でなくたって、迫害されることから守りたいと思うことは、おかしくないはずだ。


 フィニセントさんの掃く手が止まった。

 カノジョの目がこちらを向く。

 灰色の瞳は、変わらず、淡々としている。

 ……いや、少し大きく……そんなことはないか。


「……安心して。仮にそうなったら、私は出て行くから」

「え、独りで?」

「そうよ。あなたたち兄妹に迷惑はかけないわ」

「でもっ、そんなっ、危ないよ」

「私が危険な目に遭ったとしても、そのとき、あなたたちにはもう無関係なことよ」

 一緒にいないのだから、ということか。

「……ダメだよ、そんなの。だから、独りにならなくて済むように、もうちょっとみんなと仲良くっていうかさ。話すのが苦手でも、その、笑ってみせる、とか」


 フィニセントさんの目が、また向こうを向いてしまう。

 ザァ、ザァと、掃き掃除が再開される。


「アクセル。あなた、自分が弱いことを理解したほうがいいわ」

「……はぁ?」

 まさかの、いきなりの侮辱。

「弱い人が多くを抱えすぎると、何もかも救えなくなるわよ。あなたが守りたいものは、何なの? シルキアではないの?」

「……それは、そうだけど」

「なら、妹のことだけを考えなさい。妹と幸せになることを考えなさい」

「…………」

 二人の恩人の顔が脳裏に浮かぶ。

 グレンさん、それに、ディパルさん。

 確かに、カノジョの言う通りだ。

 オレみたいな弱いヤツが、一番守りたいもの以外を考えて、どうなる。

 多くを抱えられるのは、強い人だけだというのに。


「……ファムお姉ちゃんは、みんなと仲良しになりたくないのぉ?」

 オレも黙り、フィニセントさんも黙っていると、まさかのところから声が上がった。

 シルキアだ。妹はフィニセントさんに苦手意識があって、カノジョがいるときは一気に口数が減る。だから今、自発的に会話に参加したことに驚いた。

 掃き掃除の音が止む。


「……どうなるのか、結末がわかっているとね? やりたくなくなるものなのよ」


「……んぅ?」

「え? どういうこと?」

 返事を受けたシルキアも、そしてオレも、意味がわからなかった。

 ザァア!

 ひと際、大きく擦る音がした。

「まあ、悩みすぎれば最も大事なものが見えなくなるものだけれど、若いのだから悩むことも特権ね。何にしろ、心配しないで。私はまだ世界を見てみたい。上手く対処するわ」

 と言ったフィニセントさんは、振り返ると、箒を手にこちらへ歩いてきた。

 戸惑っているオレたち兄妹を素通りし、そのまま気配が離れていく。

「あ、ちょっと!」声を掛けながら振り返ったが、すでに遅く、姿はなかった。

 隣家の掃除へと向かったのだろう。


「……お兄ちゃん」

「ん」

「ファムお姉ちゃん、言ってること、わかんなかった」

「ああ。オレもだよ」

 と言うか、最後の発言。

 若いのだからどうこうと言っていたが、オレとそう変わらないだろうに。

 今度、年齢でも聞いてみようか。まあ、答えてくれる望みは薄そうだが。


「――話、終わった?」

 上からナーナの声が降ってきた。

 見上げると、二階廊下に、本を一冊持っているナーナの姿。

 その肩からは、大きな麻袋が一つ、提げられてもいる。

「終わるまで待ってたの?」

「なぁんか、大事な話をしてる気がしてねぇ」

「ん~、大事なことを言ったつもりではあったけど」

 会話の始まり、オレの発言は、そうだったはず。

 ナーナが笑いながら階段を降りてくる。

「でも、安心だよ。アクセルくんとシルキアちゃんがいて。セオおばさんも、二人がいてよかったって、思ってるよ。ファムちゃん一人だったら、多分、心配で化けてる」

「そうかな?」

「絶対ねぇ。セオおばさん、ほんと、優しい人だったから」


 ふと思い出したのは、ディパルさんに同行を申し出たときのこと。

 そういえばあのとき、ディパルさんはオレたち兄妹を見て、フィニセントさんも見て、返事をした気がする。わざとらしいとは言わないが……いや、わざとらしく思える動きだったから、こうして覚えているのか。

 多分あのとき、ディパルさんは、自分がいなくなったあとを考えたのかもしれない。

 いや、きっとそうだ。

 カノジョは、自分が死んだあと、独りになるフィニセントさんを想ったんだ。

 だからオレたち兄妹の同行を許したのだろう。


 ……だったら、嫌われたって、心配することは正しいはずだ。

 フィニセントさんを孤独にさせない。

 積極的に構うことはしない。オレだって素っ気なくされ続ければ傷付くから。

 だけど、せっかく一緒にいるんだ。

 ディパルさんが望んだことなら、尚更。

 それに。

 フィニセントさんは悪い人なんかじゃない。

 気難しい性格だとしても、悪人でない人が孤独になるのは、間違ってると思う。

 とはいえ、友だちにはなれそうにないけどね!


「ところで、ファムちゃん。お隣の掃除行っちゃった?」

「あ、うん」

「そっかぁ。じゃあ、三人で頑張ろっか~」

「だね。本、持つよ」

「お、助かる~」


 ナーナから受け取った本は、片手で持てるくらいの重さだ。草と花の絵が描かれている深緑色の表紙は、なかなかにボロボロ。どれほど劣化しているか、鑑定の経験を積んでいないオレには計り知れない。怖いな……。下手な扱いをすれば崩れてしまうかもしれない。書物は、紙は、文字は、結構脆いものだから。慎重に使わないとな。


「そういえばさぁ。馬、乗っていったほうがいいよね?」

「えっ、乗れるなら乗りたいっ!」

「おぉ、めっちゃ前のめりぃ~。アクセルくん、そんなに馬好きだったの?」

「あ、や、馬が好きっていうか……」

 前のめりと指摘され、確かに自分の言葉に熱が入り過ぎていたなと思い、恥ずかしくなって流暢に返事をできなかった。それがまた、恥ずかしいっ。

「んん? なぁになぁに、別に恥ずかしがらなくていいじゃ~ん」

「あはは……でもその、好きっていうより、あのさ、訓練したいなって思ってたから」

「訓練って、乗馬のってこと?」

「そうそう。オレ、まだまだだからさ。もっともっと乗りこなせるようになりたいんだ」

 ナーナの表情が、ニッコリ笑顔に変わった。

「いいねっいいねっ。向上心、最高! かっこいいよ!」

「やめてよ、そんなさ、あはははははは」

「もぉ~、照れちゃってぇ、きゃわいいなぁ~」

「可愛いはやめて」

「え~、可愛いもんは可愛いんだもん。ね、シルキアちゃん。お兄ちゃん可愛いよね」

「ぅん? ぅん~、うんっ!」

 よくわかっていないだろうが、元気いっぱいに頷いた我が妹。

 まったく……。


「それでさ、乗れるのかな」

「大丈夫だと思うよ。自分たちの都合じゃなくて、ちゃんと、村のための仕事なんだし、ダメとは言われないんじゃないかなぁ」

「そっか。だったら、嬉しいな」

「ま、お姉ちゃんに任せて。風向き悪そうになったら、うまぁ~く説明してみせるからさ」

「ん。期待しておくよ」

 オレたち三人は、家を出て、村の出入り口へと向かった。

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