2部2章 行商隊が訪れるまで、およそ三ヵ月。大体いつも同じ一日 1

 寝起きですぐに嘔吐したせいで頭がクラクラするから、村に一カ所しかない公衆便所の壁に凭れかかって空をぼんやりと眺めていると、誰かが便所に入る気配がした。


 ――しゃああああじょろろろぼぼぼぼぼぉ。

 放尿の音が、聞きたくなくても、耳に入ってきた。便所は建物自体木製で、中の、全部で五室ある個室の境界も木製なのだが、その木が薄いせいというか目隠し程度の役割しか果たせていないような薄さでしかないから、排泄の音は丸聞こえなのだ。


 恥ずかしくないかと言われれば、恥ずかしいさ。

 でも、恥ずかしいなんて感情は、この規模の村だと贅沢になる。

 恥ずかしさをなくすために手間暇かけて便所を作るだけの労力が勿体ないということだ。


 ……っていうか、オレがこんなところにいるのがよくないよな。

 羞恥心なんて贅沢なものだ。

 だからといって、集団生活するうえで配慮を欠かすこともよくない。

 便所の質が低いとわかっているのなら、なるべく傍にいないようにすべきだろう。

 音がダダ洩れだとしても、近くにいなければ聞こえることはないのだから。

 凭れるのをやめて、便所を背後に、真っ直ぐ歩いてみる。


 薄く青みがかって見える空気は、澄んだ早朝の象徴だ。

 まだ誰も活動らしい活動をしていないらしい静けさの中、村を囲う柵まで近付いてみる。

 とくに意味はない。ただの気まぐれだ。


 正面に見えていた柵には、一分も経たずに着いた。

 オレの故郷――【コテキ】も木製の柵で囲われていたが、ここの柵に使われている木材はまるで棒のようだ。こんな細いもので境界線としての役割が果たせるとは思えない。

 けれど、ずっとこれでやってこられたから、こうなのだ。


 ……場所によって、こうも違うんだな。

 ここ【ストラク】で暮らし始めて、今日でちょうど一週間。

 村人の名前と顔を覚えたくらいには生活にも慣れたが、まだ落ち着かないところもある。

 それはこうして、ふとしたときに『場所』そのものに意識を向けたとき、抱くものだ。

 故郷との違い、差、ズレみたいなものに、ソワソワしてしまう。

 ……人にとって、その場所って、大事なんだな。

【コテキ】で当たり前のように生活していたときには、そんなこと考えもしなかった。

 ディパルさんが故郷で最期を迎えたいと思った気持ち、今なら本当によくわかる。


 ……オレは、帰れるのかな。

 故郷の【コテキ】は、魔族の襲来を受け、破壊された。

 人もたくさん殺されてしまった。

 建物はほとんど瓦礫と化してしまった。

 今、どうなっているのかはわからないけれど。

 もうオレの知っている故郷が存在しないことだけは、確かなこと。


 ……いや、コテキはある。なくなったわけじゃない。

 オレの生まれ育った町は、営みは、壊れ燃えてしまった。

 でも。

 その場所自体が消えてなくなったわけではない。

 今もコテキという場所そのものは、変わらずそこにあるのだ。


 だったら。

 ……直せばいい。また、住めるようにして、暮らせばいいんだ。

 オレや妹を始め、逃げることができた町民が少しずつでも戻って、復興すればいい。

 そしてまた、笑い合って、支え合って、生活を始めれば、故郷は甦る。

 甦るんだ。


 ……ネルやモエねぇ、元気でやってるかな。いや、元気に決まってるよな。

 初恋の人であり今も愛する人であるモエねぇと、最高の親友であるネルに、早く会いたい。

 そのためには、【リーリエッタ】に行かなければならない。

 きっとそこにいるはずだから。

 会えないにしても、そこにいれば、会える可能性は高いはずだから。

 とはいえ。

 焦ったところで、今は何もできない。


 今は今に集中しよう。


 先を見据え考えることは、生き方の計画を練る意味でも肝心だ。

 しかし、考えたところで、ここからすぐに出て行くことはできない。

 半年に一度やってくるという行商隊を待つと決めたのだから。

 決めたのなら、それまでは、今やれることをしっかりやろう。


 ……お世話になってるハーナさんとナーナ、村の人たちに恩返しもしたいしな。

 オレも妹も随分とよく面倒を見てもらっている。

 暮らしを与えてくれているタリウス母娘を始め、村の人たちはイイ人ばかり。

 今は少しでも村の仕事に貢献して、村の役に立ちたい。


 さあ、今日も仕事だ!


 柵をポンと軽く叩いてから、オレはタリウス邸へ戻ることにした。

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