1部2章 死と避 3
遠ざかっていく蹄と車輪の音は、北門から町の中へ入ったときには聞こえなくなった。
すぐ近くにあった建物の陰に、まずは身を潜める。
人間の痛々しい悲鳴。
身の毛もよだつ気色悪い雄叫び、鳴き声。
あちこちで上がる、破砕音や爆発音。
怖い。
怖い。
怖い。
でも。
「……行くぞ、行くぞ、行くぞ、行くぞ……」
言い聞かせ、震える両足をバシバシと叩いて喝を入れ、身を屈めて歩き出す。
目的は、ただ一つ。
家族を見つけること。
もう逃げている可能性はある。
ミーシャおばさんが知らなかっただけで、別の馬車でとっくに離れているかもしれない。
もしもそうだったとしたら、オレがここに残っていることは、ただ自殺行為なだけ。
とはいえ、わからないのであれば、行かない選択肢はない。
すでに避難しているという考えは可能性の話であって、事実はわからない。
わからないなら、最悪の事態を避けるために動くべきだろう。
もしも逃げ遅れているなら、合流しなければならない。
シルキアの傍にいてやらなければならない。
だから、まずは家に向かおう。
隠れて、隠れて、隠れて、進んでいく。
辺りに注意しながら。でも、注意しすぎるとビビッて進めなくなってしまうから、ほどほどに窺いつつ、進んでいく。
瓦礫になっているせいで進みにくいところもあったが、瓦礫になってくれているおかげで身を隠せるところもあった。
そして――
……クソ。ここ、どうするっ!
もう長屋は目と鼻の先、という地点まで来ることができた。
あとはこの通りを超えるだけ。
とはいえ、通りは遮蔽物もなく、無防備に姿を晒さなければならない。
その、晒さなければならないということが、オレの足を止めた。
……どうする。遠回りするか。
考える。正しい選択肢は何か、と。
通りは、見たところ、右にも左にも何もいない。
魔族はいない。人の姿もないけれど。
どうする。どうすればいいんだ。
「――やああああああっ!」
甲高い叫び声がした。
次の瞬間、身体が動いていた。
意識より先に走り出していた。
足の動きから二秒ほど遅れて、脳が身体を動かした理由について考え、答えを出す。
今の声……。
今の声は、シルキアのものだった。
だからオレの身体は、反射的に駆け出していた。
走って、走って、走って――悲鳴が聞こえるほうへ向かう。
長屋の奥だ。
中ではない。
井戸のある広場のほうだ。
「――――――」
悲鳴が止んだ。
そのすぐあと、オレは広場に着いた。
シルキアがいた。
地面に倒れている。
ただ、ぴくりとも動いていない。
「シル――」
呼び掛けながら駆け寄ろうとして、足が止まる。
左側に感じる、圧倒的な存在感。
見たくもないのに、なぜか、顔を向けてしまう。
魔族がいた。
殻を開けた貝が直立しているような見た目で。
あれが貝だとするなら貝柱があるはずのところには、ぽっかりと黒い穴が空いていて。
その穴からは、太いミミズが無数に飛び出している。
「あ、あ、あ、あ、あ……」
出そうと意識していないのに、声というかただの音が口から出た。
両親が、そこには、いた。
母の顔が。
父の顔が。
宙で並んで、オレを見ている。
太いミミズの先端に刺さった二人の顔が、ぷかぷかと上下運動しながら、オレを……。
視界が明滅した。
全身の感覚が薄くなっていく。
あらゆるものが遠ざかっていく感覚。
「――――」
誰かに呼ばれたような気がした。
でも、わからなかった。
わからな――痛い!
頬に強烈な痛み。
え?
何が起きたんだと、瞬きを繰り返す。
視界に、すぐ傍に、人の足があった。
靴を履いていて。
その靴には見覚えがあって。
オレは救われた気持ちになって。
ボタボタボタ――その靴の上で、足の周りで、赤いものがたくさん弾けた。
血だ、とわかって、オレの血の気は一気に引いていった。
救われた気持ちは、瞬く間に、恐怖で塗り潰されていく。
「しっかりしろ、アクセル」
怖さで奥歯がガチガチと噛み合わないほど震えながら、でもなんとかオレは顔を上げる。
グレンさんと、目が合った。
グレンさんは、ニカッと、笑っていた。
いつものように、笑っていた。
「ぐ、グレンさんっ、お、お腹っ⁉」
その腹部には、太いミミズが刺さっている。
そのミミズが激しく動いて、辺りにグレンさんの血をばら撒く。
オレの顔面も濡れた。
「アクセル、今からヤツに爆薬をぶつける」
痛いはずなのに。
痛いでは済まないくらいの激痛のはずなのに。
グレンさんの声は力強かった。
「そうしたら、シルキアを拾ってすぐに逃げろ」
その力強さが、何のためか。
オレはわからなければならない。
オレは受け止めなければならない。
そうでないと、すべて、無駄になるから。
誰一人、救われないから。
途方もなく怖いけれど、それでも。
オレの中には、明確な熱が宿った。
「これを」
グレンさんが、左手に持っていたものを放る。
受け取ったその布袋は掌で握り隠せそうなほどなのに、袋の大きさの割に重たかった。
オレはすぐに布袋をズボンの腰紐に無理矢理括り付ける。キツく、しっかりと。
「では、やるぞ。振り向かずに、走れ」
オレが頷くや、グレンさんは空いた左手で、腰に提げていた拳大の球体を千切りとった。そんな力を入れなくても千切れるよう、あらかじめ極めて細い草紐で括っていたようだ。
躊躇するな。
オレがためらったら、グレンさんの死が無駄になる。
そう、そうだ。
グレンさんは、もう、死ぬんだ。
死ぬんだ!
だから。
だから!
怖くても。
やらなきゃいけないんだ、オレは!
やってやる、やってやるっ!
球体からは、細い紐が伸びていて。
グレンさんはその紐を摘み、同じく腰から提げていた薄い石片に思い切り擦り付けた。
ジジッと火花が散って、球体の紐に火が着く。
細い白煙を上げながら火が移ろっていく。
「アクセル。正直に、誠実に生きろ。それは人間としての武器になる」
「はい」
「ただし、商人としては、時に、嘘も使え。適切な嘘は成功をもたらしてくれる」
「はい」
ポンと、頭を撫でられる。
鼻奥がツンと熱くなった。
いや、ダメだ。
泣いている場合じゃない。
オレはシルキアへと身体を向け、いつでも駆け出せるように準備する。
頭に感じていた重みが、温もりが、離れた。
――ドォン!
すぐ傍で激しい爆発音がした。
「行けぇぇぇえ!」
渾身の叫び声。
背中を押されたかのように、オレは力強く踏み出せた。
シルキアだけを見ろ。
シルキアだけを見ろ。
シルキアだけを見ろ。
ほかのこと一切を気にせずに、妹の傍に寄る。
一瞬だけ速度を落とし、小さい身体を両手で抱え上げ、再び駆け出す。
振り返るな。
走れ。
振り返るな。
走れ。
振り返るな。
走れ。
振り返るな。
走れ。
グレンさん。
足は止めずに、振り返る。
こっちを向いていたグレンさんの頭が、首から千切れ、宙に飛んだ。
……ああ、クソ。ちくしょう。
前を向きながら妹を背負い、ひたすら町の外目指して走る。
魔族どもめ。
これまでの人生で初めての、圧倒的なまでに濃厚な憎悪を抱えて。
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