1部2章 魔を焼く焔

 妹をしっかりと抱きかかえたまま、振り返らず、脇目もふらず、オレは走って走って走って走り続けた。

 悲鳴が聞こえてきても、悲鳴が聞こえなくなっても。

 建物の崩れる音がしても、崩れる音がしなくなっても。

 雄叫びがしても、止んでも。

 顔は真正面を向けたまま、町の外へと向けたまま、ひたすらに足を動かし続けた。

 とにかく、遠くへ。

 少しでも、遠くへ。

 それだけで頭をいっぱいにして。


 建物の角を曲がると、左側に北門が見えた。

 あちこちで火事が起きている。生活や仕事に使っていた火や油が、倒壊した建物を燃やしているのだ。黒くて、臭い煙が辺りを汚している。ほんの少しでも吸ってしまえば、吸ったぶんだけ内臓が毒されてしまうことは知っているが、そんなことに構っていられない。

 たくさん吸えば吸うほど咳き込んでしまって結果酸素を確保できないことになってしまうかもしれなくても、オレは荒い呼吸を繰り返す。息を吸い続けないと、足が止まってしまうから。

 黒煙のせいで不明瞭な視界だ。でも、方向感覚が失われるほどではない。生まれ育った町で、今日まで何度も何度も行き来した道。迷うことはない。

 瓦礫から瓦礫へと移って身を潜めながら、オレは目的の厩舎へと近づいていく。

 馬を使うためだ。少しでも早く離れるのなら、自分の足よりも遥かに優れているから。


 ――バタバタバタバタッ!


 そのとき、いきなり何かが降ってきた。

 反射的に身が竦んでしまう。

 気を取り直せたらすぐ、傍にあった瓦礫の山に慌てて隠れる。

 一体なんだ、何が起きた⁉

 正体を突き止めるため、辺りを窺う。

 地面の一部が、真っ赤に濡れていた。

 その周りには、何か柔らかそうな、赤くて白っぽい色の物体が落ちている。

 ……血だ。血と、臓物だ。

 思い至るまでに、そう時間はかからなかった。


 足が震える。

 カチカチと歯が鳴る。

 心臓はもうずっと痛い。

 呼吸は荒くなり過ぎて、吸って吐いてを繰り返すたびに苦しい。

 苦くて酸っぱいものが込み上げてきている。

 怖い。恐ろしい。

 でも、考えろ! 早く! どうするか考えて、進まなきゃ!


 ……まず、今決めることは、このまま進んでもいいのかどうかだ。

 血と臓物が降ってきた。ということは、それをやった原因が近くにいるってことだ。近くっていうのが、前方なのか後方なのか、右か左なのか、ここからどれほど離れたところにいるのかはわからない。近いかもしれないし、少し離れているかもしれない。離れたところからでも、例えば血と臓物を放り投げたとしたら、ここに落下することも考えられる。

 どうする。

 どこが危険ではない。

 どの道が安全だ。

 そもそも厩舎に向かって大丈夫なのか。

 馬なんているのか。

 と、不意に視界が暗くなった。

 影が差したのだ。


 ――ドサッ。

 左側、すぐ近くに何か落ちた。

 勢いよく顔を向けて確認する。

 馬と目が合った。

 なんだ、馬か……馬っ⁉

 それがどういう意味か理解し、オレはギョッとして仰け反る。

 馬がそこにいた。

 正確には、馬の首だけが、そこにあった。

 首から下は、どこにもない。胴体も、足も、どこにも。

 オレは身を屈めたまま、方向転換する。

 厩舎はダメだ。あの馬がどこの馬かはわからないけれど、馬を頼るのはやめよう。


 ……柵を超えるか。

 馬を使わないのなら、門にわざわざ行く必要はない。

 柵を超えて町外へ出るなら、とにかく町の端に向かおう。

 できるだけ身を屈め、出せる限りの力を出して走る。

 そして――見えた。

 柵だ。町を囲っている柵。

 林との距離が近いところだから、獣が超えてこないために、獣がぶつかっても耐えられるように、柵の中でもここは背が高い造りをしている。超えるのは、ほかよりも大変だ。


 一番近いところにある家屋の傍で、一旦、立ち止まる。

 柵までは、十秒もかからない。でも、柵を超える間、無防備になってしまう。妹を抱えた状態で柵を上り、超え、向こう側に降りるまで、どれくらい時間がかかるか。

 ここと柵までの間には、左右に伸びている道が一本。そこにはなんの気配もない。

 ……いや、考えてる場合じゃないか。

 ここまで来て、尻込みしてどうする。

 柵を超えると決めた。そしてここに来たんだろ。

 だったら、超えるだけだ。

 脅威を感じないのなら、今のうちに行くべきだろう。迷い考えているうちにも、状況は刻々と変化してしまう。早く行くべきだ。

 覚悟を決め、駆け出す。


 道を超え、柵に寄り付けた。

 よし、上るぞ。

 左手で胸のほうにだらりと垂れている妹の両手首を掴み、柵を構成する棒のうち背伸びして上体を目一杯伸ばして届くギリギリのところを右手で掴む。腕の力だけで上体を持ち上げながら、なるべく高いところの棒に跳び乗る。また、上方の棒を右手で掴み、跳び上がる。それを繰り返して、上へ、上へ、上へ。

 そして――右手が一番上の棒に届くところまで来た。

 伸ばして、掴む。


 ぐにゅっ、とした。


「え?」

 思わず声が出た。

 なんだ今の感触。棒のものじゃない。

 何を掴んだ。何に触れている。

 気持ち悪い。放したい。

 でも。

 退くよりも、進むことにした。

 握力を強めて、グッと一気に腕力だけで身体を持ち上げながら、両足で思い切り踏み切る。

 ふわっと浮き上がった身体は、一番上の棒に着地した。

 あとは向こうへ跳ぶだけ。

 その前に、一応、何を掴んでいるのか見ておこう。

 俯く。


 赤黒いどろりとしたものを、オレは握っていた。

 それは棒に広くまとわりついていて、握っているところだけでなく、両足を下ろしているところもそうなっていた。

 これは、なんだ。

 そう思った次の瞬間、赤黒い表面に無数の線が生まれた。

 人差し指くらいの長さの、キレイな直線。それが大量に現れた。

 突然の変化に、オレは固まってしまう。


 線が、ぴくぴくと、微動した。

 かと思えば。

 すぐに、線はなくなった。

 代わりに、一面、無数の目が現れた。

 理解する。

 閉じていたものが一斉に開いたのだ、と。

 ぎょろぎょろぎょろと、上下左右に躍動する目玉。

 目が合った。

 オレのことを、認識された。


 ――ピュイイイイイイイイイイイイイイイ!


 町中のほうで、笛のような甲高い音が鳴る。

 ゾッと、背筋が震えた。

 ヤバイ! 直感が脳内で弾ける。

 今のは合図だったんだ。この目は町に張り巡らされた監視で、どういう仕組みかなんて見当もつかないけれど、魔族に情報が流れるようになっていたんだ。

 ここを通るヤツがいるぞ、と。


 オレは思い切り前方に跳躍した。

 町の外に着地し、衝撃を上手く吸収できず、前のめりに倒れてしまう。

「ッ」両膝に激痛が走った。地面に思い切りぶつけてしまったせいだ。

 だけど。

 だけど、痛いなんて言っていられない。

 だって、わかる。わかるんだ。

 後方に、近づいてくる圧倒的な存在感を。


 逃げなきゃ。

 早く、速く。

 目の前に見えるあの林へ、林へ行くんだ。


 感じる気配。

 近づいてくる気配。

 急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ。

 走って走って走って走り続ける。

 ――入れた。

 でも、まだだ。まだ足を止めちゃいけない。

 オレは林の中を進んでいく。


 ――ドォン!

 後ろ、少し離れたところで、何か重たいものが落ちた音がした。

 ……落ちた? いや、違う。多分、追ってきた魔族が着地したんだ。

 空を飛べるのか、跳ねてきたのか、いや、そんなことどっちでもいい。

 とにかく追っ手は、歩いて林の中に来るらしい。


「あうっ」

 躓いて、オレは転んでしまった。

 両手は妹のお尻を支えていたから、顔面を地面に強打してしまった。

 くらっと、視界が暗く歪む。脳が揺れてしまったのか。クソ。

 痛い、身体中が痛い。顔面に新鮮な痛みを負ってしまったせいか、これまで騙し騙しやってきた痛みを自覚させられる。痛いと一度思ってしまったら、もう止まりそうにない。

 苦しい。つらい。

 でも、ここで倒れていたら見つかってしまう。

 見つかってしまうんだ!

 まず右膝を立て、奥歯を噛み締め、唸り声を上げながら、立ち上がる。

 背後に、気配。あまりにも大きい。圧が伝わってくるほどに。


 ……ダメだ。今のままじゃ逃げ切れない。

 満身創痍の身体では、これ以上は走れない。

 少しでもいい。少しでもいいから休まないと。

 辺りを見回す。

 大木に、洞を見つけた。

 ふらつきながら、その穴へ向かう。

 ――バキバキバキバキィ。

 枝の折らられる音がした。想像以上に距離が近い。

 急いで洞に身を潜める。穴から身体が出ないように、外から見えないように。

 息を潜める。


「――ンン? ドォ~コ、イッタァ~ア?」


 声がした。

 何を言っているのか、その意味を理解できたことに絶望感を覚える。

 人間の声にしか聞こえなかったからだ。

 かなり低くて、重たくて、ざらついた声質だったけれど、ああいう人もいるだろう。もしも今の声で、例えば「こっちにおいで?」なんて呼び掛けられたら、人間に呼ばれているとなんの疑いもせずにホイホイ出て行ってしまうはずだ。

 なんて、絶望的なことなんだろう。

 オレは聞きたくなくて、両手で耳を塞ぐ。


「――イナイワケネェンダヨナァ~。ダッテ、コンナ、ニオウンダカラヨォ~」


 ズンズンズンという重低音が、すぐ近くで繰り返される。

 多分、足音だ。あっちを見て、こっちを見て、探してるんだ。

 洞が揺れる。オレは意識して歯を噛み合わせた。そうしないと声が出そうだから。

 足音による地響きは、少し離れたり、少し近づいてきたりする。


 バキバキと、枝がへし折れる音は止まない。この木は大丈夫だろうか。標的にされることはないだろうか。大丈夫? そんなわけない。この木だって狙われる。時間の問題だ。いやそんなことはない。大丈夫だ。大丈夫に決まっている。決まっている? どうして……。

 いろいろな考えが思いが駆け巡る。

 悲観的なことが芽生えては、楽観的なことが芽生える。


 ……お願いします!

 オレは願った。

 お願いしますお願いしますお願いしますお願いします!

 もはや、願うことしかできない。


「――んむぅ」


 背中で、微かな唸り声がした。

 もぞりと、妹が動く。

 オレはハッとし、妹の口を塞ごうと身を捩り――


「あれ? お兄ちゃん?」

「ン? ガハハッ! ソコカァア!」


 ――間に合わなかった。

 ズシン!と、すぐ傍で巨大な重低音。

 見つかった。見つかってしまった。

 バキバキバキバキバキバキ!

 木が悲鳴を上げる。洞が激しく揺れる。

 次の瞬間、見える景色が変わった。

 地面が見えていたのに、まったく見えなくなった。

 代わりに、空が見えた。空との距離が近くなった。

 どうやら、木ごと引っこ抜かれたらしい。


「キャアアアアアアアアアアアアアアアア!」

 絶叫する妹を、オレは抱き締めた。

 せめて、洞から落とされないようにする。

 ……落とされないように? そんなことになんの意味がある。

 もうダメなのに。

 もう死んでしまうのに。

 ……どうせなら落ちて、頭から落ちて、死んだほうがマシじゃないか。

 魔族が簡単に死なせてくれるとは思えないから。

 死ぬという結果が同じなら、痛い思いを少なくしたい。

 妹が甚振られるなんて、絶対に嫌だ。

 ……でも。

 自殺するなんて、とてもじゃないが、できそうになかった。

 したくなかった。


「誰か……誰か助けてぇぇぇぇぇぇぇぇえ!」


 オレは精一杯に叫んだ。

 助けを求めることしかできないから。

 できることが一つしかないのなら、それを全力でやるだけだから。

 叫ぶ。

 叫ぶ。

 叫ぶ。

 叫ぶ。


「――燃えろっ!」


 鋭い声がした。

 聞いたことのない、力強い声だった。

 ぶわっと、全身にぶつかってきた熱風。


「グオオオ!」

 野太い声は、魔族のものだ。

 視界が激しく揺れる。

 空が遠くなっていく。

 ドォン!という激しい重低音のあと、全身を襲った強い衝撃。

 オレは妹を強く強く抱き締め、反射的につむっていた目を開ける。

 地面がそこにあった。

 でもオレたちはまだ洞にいる。

 ……どうやら木ごと落下したみたいだ。

 一体、何が起きたのだろう。

 聞こえてきた声は?

 突然の熱風は?


「――魔族めっ! この私が燃やし尽くしてやるっ!」


 燃やし尽くす?

 一体、どういうことだ。

「……シルキア。オレが来るまで、喋らずに、動いちゃダメだよ」

 確かめることにした。

 妹はぶんぶんと首を左右に振ってオレの服を掴むが、オレはごめんと内心で謝りつつ力づくでその小さな手を剥がし、洞の外へと探り探り出た。


 人の形をした炎が、魔族と対峙していた。

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