1部2章 死と避 2

 進んでいるうちは、絶対に視線を上げないように意識していた。

 木々の隙間から煙か何かが見えてしまったら、止まってしまいそうだったから。

 斜め下だけを睨んで、オレはひたすら、両足を交互に踏み出すことと足の裏を接地させることのみを考えた。その成果だろう、一度も転ぶことなく、林を抜けることができた。

 戻ってきたところで、オレは顔を上げる。


 町を囲う柵の向こう。

 壊されていた。

 違う。

 今もなお、町は破壊されている。


 あったはずの建物が、何軒も何軒も、倒れ崩れている。

 あちこちから何本もの濁った煙が上がっている。

 人々は悲鳴を上げながら、あっちへこっちへと逃げ惑っている。

 そして――


 魔族がいた。


 獣ではないと、蟲ではないと、ひと目でわかる。

 タコのような触手をうねらせながら、ソイツは地面の上を這い進んでいる。

 頭?だろう部位には、ナメクジの目のようなものが無数に飛び出し、蠢いている。

 気持ち悪い。

 恐ろしい。

 気持ち悪い。

 怖い。

 気持ち悪い。

 蟲にもたくさん気持ち悪い種類はいるが、あれはそれらの比ではない。


 足が、竦む。

 腰の辺りに、生温いものが広がっていく感覚がした。

 初めは自分の汗かと思ったが、これは違う。

 ネルの……


「――ネル! アクセル!」


 びくんと、オレたちは揃って飛び跳ねた。

 微動だにできなかった身体が、自分のものに取り戻せたような、血の通う感覚。

 おい!とか、そこの!とか、そういうただの呼び掛けだったら、恐らくこうはならなかっただろう。

 名前を呼ばれたから……よく知った声に呼ばれたからだ。


「母さんっ!」

 ネルが叫んだ。

 オレは顔を向けつつ、すぐに声のしたほうへ動き出した。

 ナメクジの目のようなものが、こっちに向くような予感に襲われて。見られる前に動かなければならない。捉えられる前に行かなければならない。でないと手遅れになる。その思いに突き動かされたのだ。


 浮つく足で進みながら、声のしたほうを向けば、一台の馬車が見えた。

 その位置からして、北門から走り出したけれど止まったのだと考えられる。

 横へと視線を流せば、もう一台、走り去っていく馬車の後ろ姿が見えた。

 町民が逃げているんだ。


 ネルの母親――ミーシャおばさんが走ってくる。

 すぐそこまで来たと思えば、勢いそのままに思い切り抱き留められた。

 柔らかく温かいものに、涙がぶわっと溢れる。


「二人とも行くわよ!」

 親友であるネルの母親なのだから、ミーシャさんとも関わりは深いほうだ。

 だから今の声が、これまでに聞いたことがないほどの切迫したものだと、わかる。

 どこ行っていたの!なんて問い詰められることもなさそうだ。

 そんなことをしている余裕すらない状況なのだ。

 背中が軽くなった。おばさんがネルを抱えたのだ。


 とにかく早く馬車へ。

 オレたちは走り出した。

「あのっ、シルキアはっ! オレの家族はっ!」

 走りながら、オレにとって一番大事なことを尋ねる。

 と、怖いくらいの厳めしい表情のまま、おばさんが言った。

 わからないわ、と。

 オレは足を止めた。


「アクセルっ⁉」

 少し遅れておばさんが足を止め、振り返って叫んだ。

「行ってください! オレは町へ戻りますっ!」

 おばさんとネルに背を向ける。返事なんて待っていられない。

「やだっ!」

 なのに、悲鳴のようなネルの声を受けて、足が止まってしまった。

 直感が働いたからだ。


 話せるのもこれが最後かもしれない、って。


 オレは振り返り、おばさんに抱っこされているネルに近付く。

「ネル。夢、叶えような。オレも絶対、すげぇ商人になるから」

 右手でカノジョの頭を撫でる。

 笑って。必死に、笑顔を作って。

 カノジョの髪から手を離し、また振り返る。

「やだっ! やだやだやだっ! アクセルっ! 一緒じゃなきゃ!」

 悲痛な声。

 でも今度は、今度こそは、駆け出す。

 もう振り返らない。

 名を呼ぶ声が、どんどんと、遠くなっていった。

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