第11話 初診-生い立ち-保険会社勤務

 保険会社に入社してから四年が経った頃、俺のメンタルに限界が訪れた。

 というのも、入社当時は十二人いた同僚(研修生)が、その頃にはたったの二人に激減していたのだ。


 十二人で分担していたときは少なすぎた案件数も、二人でこなすにはあまりも多すぎた。朝から夜まで顧客訪問。帰社してからは日付が変わるまで事務仕事。土日曜日もアポアポアポ。


「仕事大変やねん。休めない。つらい」


 と、父親に弱音を吐いたことがあった。


「そんなにいっぱい案件もらえるなんて幸せなことやん。お父さんなんか、自分でいちから顧客作っていってんから。羨ましいわ」


 そうかあ。ありがたいことなのに弱音吐いて、わたしはほんとにダメな子だなあ。

 いやでも、でもさ。やっぱり大変よ……? ああ、これは言い訳かあ。ありがたいことなんだもんなあ。でもぉ……。


 という問答を繰り返す日々を過ごしていたのと同時期に、流産と愛猫の死、恋人との別れを経験した。


 俺は、過労と悲しいできごとによってメンタルが崩壊した。


 当時、一番奇妙だと感じていたのは、自分が自分じゃなくなったような感覚がしていたことだった。


 笑っているのだ。仕事をこっそり抜け出して流産の手術をして、術後にしれっと会社に戻ったわたしは、まるで何もなかったかのように、社員さんと楽しそうにおしゃべりしていた。


 平気で笑い、平気で冗談を言い合い、平気で仕事をしていた。

 それを俯瞰で見ている自分がいた。俯瞰の自分は、そうやってニコニコ笑っている自分が気持ち悪くて反吐が出そうになっていた。


 お前に人の心はあるのか。

 自分の赤ちゃんが死んだんだぞ。

 なんで笑っていられるの?

 ああ、わたしに人の心はないんだ。

 だってこんなに楽しくおしゃべりできているんだもん。


 一方で、笑っている自分はこう叫んでいた。

 仕方ないやん。だって仕事しないと回らないんだもん。

 お客さんに迷惑かけちゃいけないでしょ。だから仕事してんの。

 営業店の人たちは、わたしの事情知らないんだよ。

 そんな人たちに心配かけさせちゃいけないでしょ。

 それに、ここは職場だよ。自分の都合で落ち込んでたら迷惑かかっちゃう。


 通常運転でヘラヘラ笑って仕事をしている俺と、それを俯瞰で見て打ちひしがれている俺。その構図はしばらく続いた。


 ヘラヘラしている俺は、家に帰ったらなりをひそめた。

 それどころか、家に帰った俺には表情が浮き上がらなくなっていた。

 しかし出社するとたちまちニコニコの俺が顔を出すのだった。


 会社と自宅での自分の差があまりに激しくなってきたので、数年ぶりに心療内科に行った。

「適応障害」と診断された。


 そのとき俺はホッとした。

 あ、病気だった。よかった。


 俺はさっそく、上司にこのことを報告した。

 しかし上司は不思議そうに首を傾げた。


「え。でも、ぽみーさん、普通に仕事できてるよね? いつもニコニコしてるし。適応障害には見えないけど……」


 ガーン、という効果音がぴったりだった。


 そこで俺は気付いた。「頑張って無理しても損をするだけ」だと。


 それから俺は無理をしないことに決め、少し早めに親の代理店に戻ることにした。

 適応障害になった俺を、両親は優しく迎えてくれた。


「みんなしんどいのは同じやで?」

「ぽみーよりしんどい人たちいっぱいいるで?」

「それでもみんな頑張ってるんやで?」


 だが、やはりこういうことは言われる。両親なりの励ましである。


 適応障害になった俺は、もう「死にたい」しか考えていなかった。

 だが、両親より先に死んではいけないという思いで、なんとか生きていた。

 ……というのは建前である。


 実際のところ、死ぬ度胸がなかっただけだ。


 しかし、「このままでは俺は死ぬ」と当時は本気で思っていた。

 だからもう、生きるために、いろいろと頑張るのをやめた。


 風呂ギライの俺が毎日風呂に入っていた。それをやめた。

 したくもない化粧を毎日していた。それもやめた。

 人に好かれるために、愛想を振りまいていた。やめた。

 笑いたくもないときに笑っていた。やめだ、やめやめ。


 お客さんのために、会社のために、と考えて、身を粉にして働いていた。そんな考え方はやめた。

 全て自分が悪いと思っていた。こんなことになったのも、俺の弱さのせいだと思っていた。そんな考え方もやめた。


 この世界に溶け込むために、無理していたことを全部やめた。

 そしたら、すごく楽になった。

 ただ、この日から発達障害っぽい振る舞いや悩みが増えたような気がする。


「みんなと比べたら、わたしのなんてつまらんしんどさかもしれん。でもな、それでもな、わたしなりの苦しさがあんねん」


 と、父親にくちごたえをしたことがあった。

 そしたら父親が「ほう……」とはじめて納得したような素振りを見せた。


「お前なりの苦しさ、か。なるほどな。せやな。お前はお前なりにしんどいんやな」


 実家に戻った俺は、しばらくは使い物にならなかった。

 鳴き声のように「シニタイ」と言う。時間があれば自殺の方法を調べているし、首を吊れそうな場所を見つけてはニヤニヤしている。

 仕事をしていないときはほとんどベッドで寝たきり。なんなら薬の副作用のせいで、朝は寝坊、昼も昼寝を二時間ほどする、夜は定時きっかりに仕事を終えて寝る。


 そんな俺を、両親は小言も言わずに受け入れてくれた。感謝しかねえ。

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