第29話 踏み出す勇気

 ジリリッ、と目覚ましが鳴る音と同時に意識がゆっくりと覚醒する。

 寝起きで重たい体をひきづりつつ、ノロノロとリビングに向かう。

 「おはよう」とお母さんに挨拶だけをして、席に着く。

 朝食はすでに作られていた。

 今日もトンカツ……なんてことはなく、パンと卵というシンプルなものだ。

 これだったら前みたいに電車で格闘する羽目にはならないだろう。


 「ちょっと涼音、そんなゆっくり食べていて大丈夫なの?」


 パンを頬張っているときっちりと化粧を済ませたお母さんが心配そうに聞いてきた。


 「大丈夫、大丈夫。最近、一本遅い電車に乗っても間に合うって気づいたんだよね」


 これは半分本当で、半分嘘だ。

 流石に遅い電車に乗ると駅から学校まで走っていく必要がある。

 朝から全力ダッシュというのは体力的に厳しいものであり、教室に着いた時点で私の体力はゼロになっていることも珍しくない。

 ただ、教室で静香と話す機会は無くしたいし、陽菜と電車で会いたくもないし……まあ仕方ない。

 そんなこんなで、以前よりもゆっくり朝食を取っていると気づいた時には結構な時間になっていた。

 今日は余裕こきすぎたかもしれない。

 流石にあの電車を乗り過ごしたら、遅刻は確実だろうな。

 急いで準備を済ませて玄関に向かう。

 「いってきます」と扉を開けながら母親へ言う。

 お母さんは毎日わざわざ玄関まで見送りに来てくれる。律儀なものだ。


 「涼音――頑張ってね」


 いつもは「行ってらっしゃい」という返事が返ってくるのだが……。

 思わず母の顔を見つめる。


 「涼音が思っている以上に周りの人は涼音に期待していないんから……だからもっと周りを頼ってみてもいいんじゃないか?」


 あまりに急な言葉に口が上手に動かない。

 周りを頼ってみる、か。いじめられていたことを実は知っているのではないか……。

 そう疑うような言葉だ。でも、相談したところで過去は変えられない。

 だから、今の私の助けにはならない。


 「まあ、家には最強の味方がいるからな!いつでも頼っていいぞ」


 そう言って母親がニヤリと笑った。

 最強って、なんのだよ。

 思わず突っ込みたくなったけど、流石にこれ以上立ち止まっているわけにはいかない。


 「いってきます」


 そう言って、お母さんの行動に頭を悩ませつつ駅へと歩いていった。


 あーあ、思わずため息が出る。

 結局今日も静香から逃げて過ごしてしまった。

 今は帰りのホームルームが終わって、急いで教室を出てきたところ。

 いつかは喋らないといけないと思っても、先延ばしにしてしまう。

 いつかを今日にすることが出来ない。

 流石に自分でも情けないと思う。

 トボトボと歩いていると、「涼音ちゃん!」と陽菜の声が。

 校門を出るところで後ろから呼び止められた。

 陽菜の声を聞いた瞬間、思わず体がビクッと反応した。

 まるで泥棒しているところを発見されたみたいな反応をしてしまった。

 しかし、陽菜が特に気にした様子はなかった。

 「今日一緒に帰らない?」

 陽菜はコンビニでも行ってくるぐらいのテンション、軽い調子で言った。

 そ~と後ろを振り返る。

 どやって追いついてきたのだろう。

 ここまで全力で走ってきたのだろうか。

 よく見ると陽菜の前髪は汗で額に張り付いていた。

 ここでNOと言える勇気がない私はうなずくしかなかった。

 「………………」

 「………………」

 駅に向かって歩き始めたが、お互い無言のまま。

 うう……気まずい。

 てっきり陽菜の方から話しかけてくれるのかと思っていたのだが……。

 その言葉が慰めでも罵詈雑言でも、無言よりかはマシだろう。

 ああ、今すぐ、駅に向かって走り出したい……。

 頼むから何か喋ってほしい。

 何度もそう思うのだが、一向に陽菜は喋る気配がなかった。

 私から喋れば良い?そんな度胸はない!

 やっと陽菜が口を開いたのは駅に着く直前だった。


 「あのさ……」


 「うん……」


 私たちの間には気まずい空気が漂った。


 「やっぱり考え変わらない?」


 主語が抜け落ちているがバスケ部のことだろうと察せられた。詰めるような口調ではなく案外落ち着いていた口調で、なんだかホッとする。


 「……うん」


 「なんで?」

 やはり求められる理由。だけど陽菜にいじめられてたなんて話せない。


 「……陽菜には分からないよ」


 陽菜に過去の記憶がトラウマになっているなんて言っても、なにも変わらない。

 だって私自身の問題なんだから。

 どうせ、何の解決にもならないのに陽菜にいじめを受けていたなんて言うのは嫌だ。


 「なにそれ⁉」


 しかし、陽菜は私の言葉に納得しなかったのかさっきまでの落ち着いた口調から一転して激しい口調に変わって、眉間を狭めて怒りの表情を浮かべた。

 その目はキリっとこちらを睨み付けている。

 どうしよう。陽菜とは小学校以来の付き合いだがここまで怒っている表情を見たのは初めてだ。


「なにって……どうせ陽菜に言っても解決はしないし、どうしようもないことなんだよ」


 だって過去は変えられないのだから……。

 それを乗り越えられないのは私の責任だ。


 「勝手に解決しないって決めつけないでよ!」


 決めつける?別にそんなつもりはない。


 「決めつけてなんかない」


 むっとして少し乱暴に返してしまう。

 あっ、と思ったが一度口から出た言葉を無かったことにはできない。


 「決めつけてるよ、私が役に立たないって。涼音ちゃんはいっつも自分だけで考えて決めちゃってる!小学校の卒業式のときもそうだった。今度も勝手に自分で決めて私はなんにも分からないまま、いなくなっちゃうの?ねえ、もっと周りに相談してよ……頼ってよ。友達なんだよ、私……」


 そう言った陽菜の目からは大粒の涙がこぼれた。

 私がなにも言わずに中学受験したことで陽菜をこれほど傷つけていたとは――私も一言言えばよかった。

 でも、言えなかった。

 だって、いじめられていることを言わなければならないから。

 そんなこと……。


 「涼音ちゃんが何かを抱えているのは分かってる。でも、言ってくれないと力になれないよ……。涼音ちゃん、弱みを見せても大丈夫だよ。誰も涼音ちゃんのことを嫌いになんかならないから、失望なんてしないから。自分一人で抱えて諦めないで――」


 陽菜の言葉にハッとさせられる。

 今まで視界を狭めていた暗闇が急に取り除かれたような、そんな感覚だった。

 ずっと一人で考えてきた今までの私とは真逆の考え。

 弱みは隠すもの、言ってはいけないもの……いじめを隠しているうちにそんな考えが染みついていた。

 知られたら恥ずかしい……そう思っていた。

 けど、そうした自分の態度が陽菜を傷つけていて、いつまでも変われない原因なのかもしれない。

 誰にも相談せず、自分の殻に引きこもって、過去を変えられないと諦めてしまっていたのかもしれない。


 「涼音ちゃんの悩みを私も一緒に考えたい、力になりたい」


 こちらを見る陽菜の目はまっすぐで、本気で私のことを思ってくれているんだと分かった。

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