第9話 触れるということ

 律は井原陶芸教室へ向かう石畳の路地入り口、槙野駐車場の横で足を止めていた。ベージュ色の布のトートバッグの中には薫に譲ってもらった女性用の黒いエプロンが入っている。ふぅ~と一息吐いて、いざ出陣!と気合を入れたところで

「お!中田さんとこのボンやんか、どうした?」と声をかけられる。え?と振り返ると

「おはよー」

「おはようさん、今日もあっついな~」

などと、続々と近所のおっちゃん、おばちゃん連中が、おはよう、おはようとやって来ていた。律でも顔は知っているような面々。

「あ、おはようございます」

ちょっと苦笑いをしながら会釈して律も挨拶をし、シニア層の男女に混ざってそのまま教室の中へとなだれ込んでしまった。

「おはうございます」

明るく若い女性の声、蛍が既に準備をして待っていた。時間は午前十時。

「蛍ちゃん今日も教えてくれるんか?それは来た甲斐あったわ」

「ほんま、不愛想な井原先生だけではつまらんな」

「誰が不愛想や」

ほれ、その顔!ハハハハハと教室内が笑いに包まれる。一緒に井原もハハハと笑っている。律は内心、あの人笑うんや、と瞬きを何度もし驚いていた。思っていたのとは違う和やかで生徒皆が和気あいあいの教室だった。何より蛍がケラケラ楽しそうに笑いながら、シニア層の受け答えをしていて、ホッとしていた。

小学生の頃、無口で誰とでも仲良くっていう記憶はない。気が付いたら真司や他の友達に紛れて家にも遊びに来ていて、皆と一緒に話をしたという記憶しかない。

「こんなに明るく親しみのある子だったんかな」少々不思議な気持ちで作業机に向かっていたが、実際何をしていいのか分からずボーっと皆の様子を眺めていた。

「あ、今日から新人のタナカ君。皆先輩やから教えたってくれ」

と井原が言う。

「先生、タナカちゃうて、中田なかた君。ウチと同じ町内のりっちゃん。お母ちゃん美容師さんやな」と言いながら近所の川口のおばちゃんがこっちを見た。あ、はい・・・と首をコクンと動かすと、井原は面倒臭そうに「もうタナカで覚えたからあだ名がタナカや。それでええ」と強引に決める。「そんなんややこしい、りっちゃんでええやろ、なぁりっちゃん」と川口のおばちゃんがまた強引に決める。律はもうどうでもいい気分でいた。

「ねぇ、そしたら私もりっちゃんて呼んでいいのかな?」

蛍がこそっと寄ってきて律の耳元で聞いた。

「え?ど、どうぞ」

顔が近くて思わずドキッとしてしまう。

「じゃぁ、りっちゃん、月謝を回収します」と蛍は掌≪てのひら≫をはいと律に見せた。あ、と慌ててトートバッグの中に手を入れる。何でドキッとしてるねん、と自分にツッコミを入れながら月謝袋を蛍に手渡す。それと一緒に黒いエプロンを作業机に置き、他の生徒と同じように着ける。薫のそれは女性の普通サイズだったので、どうも律には小さかった。白い大き目のTシャツにしわが寄るほどエプロンがピッタリしていた。「今度大きいの買ってこよう」そう律は思っていた。フリルが付いてないだけマシだったが。

「蛍、タナカに菊練までおしえてやって」

井原がそういうと

「は~い」と蛍が粘土を持って律の前に持ってきた。

「はい、りっちゃん」

何だかこそばゆい。

「これね、並土なみつち。一般的なやつね。他に茶色っぽい赤土とかもっと白っぽいグレーの白土、石の混ざったザラッとした手触りの信楽土とか色々あるけど、初心者はまずこれで。水分を含ませながら、いい硬さまで練って、最後練った時に入った空気を出す、菊練きくねりをして、ていうのが準備段階。じゃ、先ず見てて」

と粘土の横に桶に入れた水を置いた。粘土に少し窪みを作りそこに水を少量入れ粘土に水を含ませていく。

「はい、やってみて」と交代して律も見様見真似でやってみる。見ているより力が要る。蛍のすらっとした体型からするとこんな腕力があるようには見えないのに、簡単そうに練っていた。律は数回水を加え練ってを繰り返して腕が既に痛かった。結構、息も上がってくるくらいだ。すると粘土も少しネチャっという感触に近づいてきた。蛍がそれを見て、いい感じだからとまた交代して空気を抜く菊練を見せてくれた。手首の少し上の手の分厚いところを軸に折り重ねるようなイメージで粘土を回していくと菊の花のような模様になってくるので、菊練というらしい。蕎麦作りでも同じような作業をそういう。

「はい、これもやってみて」とまた交代して律も試してみる。少し歪な形になったが、何となく菊のような形に出来上がった。

「初めてにしては上手いよ!」と蛍に褒められちょっと気分が良い。それに土と触れ合うのは子供の頃以来で、蛍と一緒に作業をするのが小学生の頃に遊んでいた感触とダブってなんだか気持ちが高揚しているのが律にも分かった。

「童心に返るでしょ」

蛍にそう言われ、心の声が漏れているんじゃないかと律は一瞬焦って「あ、うん」と頷いた。ちょっと頬が赤くなってないか心臓の音が聞こえそうで蛍の顔を見ず、菊練をまたやり直した。

「おいおい、あまりこねくり回したら土が乾燥するぞ。そんな赤い顔するまで頑張らんでも」と井原が寄ってきた。

やばい、本当に顔が赤くなってきてる、と律にも分かった。

「頑張り過ぎたら熱中症になるで、ほらほら」と近くにいた名前も知らないおばちゃんが団扇で仰いでくれた。今日は暑いなぁと、そのまた隣のおっちゃんも言い「あつはナツイなぁ~、ガハハハハハ」とベタなジョークをガタイの良い槙野駐車場の主人が笑い、教室内はその後も笑いが絶えない賑やかな空気でいっぱいだった。

結局この日律は、練り終わっ粘土で紐の作り方を覚えるまでやった。紐というのは、文字通り紐状の細長いものを作るのだが、両手でコロコロ転がしながら均等の太さに細長く紐状に作るのはなかなか難しかった。ただ想像より暖かい空気の教室に凄く居心地がよく、粘土の冷たさや泥っとした感じが癒されて勢いで仕方なく来たとは言え、昼までの二時間がとても楽しく短く感じた。

正午になり、皆バタバタと片づけを始め気付けばお菓子の交換会が始まっていた。

「これは?」ボケっと律が立ち尽くしていると川口のおばちゃんが煎餅とをくれた。

「あ、どうも」

「暑かったから塩分や。しょっぱい煎餅は美味しいで」そう言ってニコッと笑う。

「あ、そうや、先生、あんたその鬱陶し長い髪切ったらどうや?」唐突に川口のおばちゃんが井原に煎餅を渡しながら言った。

「りっちゃんのお母ちゃん美容師さんやで。美人やし今度行って切って貰い」

「大きなお世話や。これが芸術家らしいねん」

そう言って井原は煎餅をボリボリ口に入れた。

「でも先生大学にいた時はもっとスッキリしてましたよね。その方がイケメンでしたよ」と蛍が言うと「おぉイケメンやったか。まあ、元の作りがイケメンなんでね」とちょっと切ってもいいかな、という顔をした。蛍はクククと笑いを堪えて律の方を見た。

目配せして「ね、りっちゃんお母さんのサロン教えてあげたら?」と言う。

「あ、良かったら。湖岸沿いの、あ、これ」とスマホの地図を見せた

「ここすぐ分かりますし、電話番号は・・・」と持っていた以前貰った申込用紙の控えの裏に書いて千切って渡した。井原はまんざらでもない様子で受け取る。

「おい、この紙!」

教室内はまた笑いで包まれていた。

「はいはい、お喋りはそこそこにして、今月末には一回窯に入れるからそのつもりで作るように」

井原の声に、「は~い」と見た目はシニアでもキラキラとした学生のように返事をした。

「おぉ、タナカ君は週一では間に合わないから、来れる時何回でも来ていいから、何か一つくらい完成させてみろな」

と律の肩をポンと叩いて奥へ行き、早速自分の携帯に薫のサロンの番号を登録した。

その後、律は休みの度に井原の元へ行き作品作りに精を出した。





 夏の空は暑くギラギラしていて相変わらず汗が止まらない八月下旬。サマーセールも終盤のショッピングモールは夏休みが終わるまでは平日も人が多く賑やかだ。そしてもう秋のディスプレイも少しずつ準備し始めていた。

「おはよ~ございま~す、乾到着しました~」

七夕イベントの後はお盆セール以来に本部からやって来た。

「りっちゃん久しぶりやな~」

早速律に声をかける乾。

「なんか聞いたで、陶芸習ってるって、ほんま?」

「あぁ、ほんま」

と言いながらお喋りが好きな川島副主任の方へ目をやると、口に手を当てて肩を竦めていた。またバラされたと律は目を細めて副主任を見つめていると

「で、同級生がいたって誰?」と乾が問う。

そんなことまで言ってるのか、と更に目を細めて川島を見つめ直した。そのまますっと川島は席を立って事務所を出て行ったので、ここには、乾と律、アルバイトの碧、パートの女性二人と楢崎主任が居るだけだった。

「同級生で陶芸家って誰?」

「あぁ、香川さん」

「は?」

「だから香川蛍」

「あの大人しい丸い奴か」

いや、それが・・・と背が高くてスリムでめちゃくちゃ美人になってて、明るくてよく喋って誰とでも愛想よく仲良くなれるということを、律はつい熱く乾に語ってしまった。

「ほほ~」

乾は何か悟ったかのように律の顔をニヤニヤして見ていた。

「なんや、その顔」眉を寄せて律は乾の顔を見返した。そして続けて「イギリスに留学して彼氏が向こうに居るんやって」

「残念!りっちゃん即失恋やんか」

「はぁ?」

律は慌てて目の前にある書類を整理し始めた。

背にして座っている碧はずっと二人のやり取りに聞き耳を立てていた。

「いやいや、まぁ恋はこれから挽回できるかもやからな。それより、作れるん?何作ってんの今」

「あぁ、そんな簡単じゃないからなぁ。ボチボチ。来月には最初の作品が出来るわ、お楽しみに」

そう言って律は微笑んでいると、楢崎主任が打ち合わせを始めるからと乾を呼んだ。ひょいひょいと会議室Bへ主任の後を追って乾は入って行った。




 車を自宅の車庫に停めて、律は玄関に向かう。その足音は岳にはすぐ分かり、玄関を開けたらいつも待っていてくれる。

「ただいま」

そう言って岳の頭を撫でて、一緒にリビングに入るとエアコンが効いた涼しい風が顔に当たった。

「あぁ涼しい~」思わず声が出る。

部屋で洗濯物を畳んでいた薫が出て来て「おかえり、ご飯食べる?」と台所で作っておいたカレーを温め直してくれた。着替えてそのカレーを食べていると、向かいの席に座った薫が麦茶を飲みながら律が食べている姿を眺めていた。

「ん?どうしたん?」

妙に薫が静かなのでまた具合でも悪いのかと少し心配げに問う。

「ううん、どうもしない。ううん、やっぱりどうもするかな」

「え?」

少し考えるように、昼間のことを思い出しながら律に話し出した。「今日ね・・・」


---

この日の午後二時の予約が入っていた。五分ほど遅れてその客がやって来た。少し長い髪を束ねた五十代くらいの背の高い男性。予約時に名前は聞いていたので、薫は「井原さんですね」と出迎えた。どうぞとカット椅子に案内して、希望を聞いてみる。

「さっぱりしたいので短くカットして下さい」

そう言われたので束ねていた髪を解いた。その瞬間、薫はある感触を思い出した。少し癖のある天然パーマの柔らかい髪。昔そんな場面に出くわした記憶が一瞬にして戻ってきた。

「あの、ぼさぼさですみません」

その井原と言う男はボソッと言った。少し記憶を辿っていた薫はぼーっとしていたのでもう一度「ぼさぼさですみません」と井原は言った。

「あ、ごめんなさい」慌てて薫は髪を梳かし「バッサリ切っていいんですか?」と確認した。

「あぁバッサリ」

そのままシャンプー台に移動してもらい、シャンプーをする。やっぱりこの感触。シャンプーをしながらも感じるこの髪の感触は、亡くなった恒靖とよく似ていた。恒靖も天然パーマで柔らかく、優しい性格がそのまま表れていると薫は思っていた。今まで美容師をずっと続けていたけど、これまでにも感触が似ていると思ったことはなく、ちょっと驚いてしまっていた。話でもしないと、また自分の昔の記憶に吸い込まれてしまいそうなので、世間話を少しした。洗い終えてカット席へ戻り、鏡越しに視線を合わせドライヤーで髪を乾かす。井原は甚平姿に草履を履いていた。

「毎日暑いですね」と話かけた声がドライヤーの音で聞こえ難い。え?と言う顔をされて薫はもう少し大きな声をかける。そんなやり取りをしているうちに髪が乾いた姿は、肩にかかるほどのうねうねした黒髪がふわっと広がっていた。

「バッサリ、耳が出るくらいで襟足もすっきりして下さい。作業中は鬱陶しいので」井原はそう言った。

「作業中?お仕事で?」

薫は鋏とコームを手にして聞く。

「ええ、息子さん熱心ですよ」

「え?」

「井原陶芸教室の井原です」

「あら」

鏡越しに驚く顔が井原にも見えた。

「りっちゃん何も言わなくて。習いに行ってるとは聞いてたんですが・・・失礼しました」

「りっちゃん」と呟いてクスっと井原は笑って「爺さん婆さんにもりっちゃんて呼ばれて皆の孫みたいです」と続けた。

「あの子が?」

律は大人しくて近所の人にも挨拶するくらいしか見たことがなかった。少し嬉しくなった薫は井原の髪を切りながら、東京で暮らしていたことを久しぶりに思い出した。すると恒ちゃんの髪もよく切ってたな・・・と目頭が少し熱くなる。

「私、元は東京にいたんです。りっちゃんが小学生になる年にこっちに越してきて」

「道理で言葉が関西弁やないですね」

「そう、私はもう関西弁喋ると似非≪えせ≫関西弁みたくなるから。子供達は私の標準語と友達との関西弁でバイリンガルみたいになっちゃって」と笑ってみせた。

「どうですか?りっちゃん陶芸のセンスあります?」

「集中力が凄くあるから呑み込みも早いですよ。ま、手先が器用かどうかは、これから、やな」と鏡越しの井原はにこやかに話した。

「そう、あの子集中したら聞こえなくなるから、注意してください」薫は苦笑いしながら髪を切り続けた。クリップで髪をいくつかブロックに分けながら手際よくカットしていく。

「生徒さんシニア層が多いみたいですけど、りっちゃん馴染んでるんですね、安心しました」

「彼の同級生が今手伝ってくれてて、顔見知りだったみたいですよ」

「同級生?」

「大学の教え子で香川さん。小学校の同級生らしく、いつも仲良く喋ってますよ」

「へぇ」

---


「ねえ、香川さんて香川蛍ちゃんよね?」

唐突に薫は律に問う。

「何?」カレーをあと二口くらいのところで咽≪むせ≫そうになった。

「だから、今日カットしに井原陶芸教室の先生が来て色々話してたのよ」

「あぁ、そう同級生の香川さん」

「びっくりよね、そんな再会。ちょっとドキッとしなかった?大人になってから会うなんて、運命みたいで」薫がからかうように言うと「はぁ?」と律はお茶をごくんと飲みそそくさと食事を終えてシンクへ器を下げた。

「おか~んだったら運命感じるわぁ」

と薫はうっとりしながら、ゆっくりお茶を飲んだ。実を言うと、恒靖と同じ髪の柔らかさに再会した自分が運命を感じたのを重ねていたのかもしれない。

 律は昼間乾にも蛍とのことを恋がらみで言われて、帰宅してまた薫にも言われたのがこそばゆくて困った。今度会う時意識してしまうやん、もう~と思いながら急いで自分の部屋へ戻った。岳がその後を急いで追いかけた。

 一人になった薫は律の下げた器を洗いながら、昼間の続きを思い出す。


---

 髪を切った井原は顔は違えど後ろ姿は恒靖によく似ていた。

カット椅子から立ち会計を済ませ「じゃ、また」と出ていく後ろ姿は丁度逆行でシルエットだけが目に焼き付く。

 恒靖が亡くなる前の夏休み。家族四人で実家の千葉へ帰省していた。一人暮らしの恒靖の母・穂希ほまれと一緒に庭で花火をしていた夜を思い出す。甚平を穂希が恒靖と律にお揃いで縫ってくれて、二人が着て、薫と怜央は夏のワンピースを色違いで着て、皆で沢山笑っていた記憶。井原のシルエットが一瞬にして薫の気持ちをその時へ戻した。井原を見送った後、胸の奥が苦しくて苦しくて、一人店で泣いてしまった。長らく流れていなかった涙が溢れた。写真を見て思い出すのとは違い、触れた髪、目の前に見えたシルエットが立体的で胸が押しつぶされそうだった。親として前しか見てこなかった滋賀での生活は、思い出に浸る時間などなかったから。自分がこんなに恒靖を恋しがっているなんて。薫自身気付いていなかった。涙と一緒にその恋しさが溢れ出て止まらなかった。

---


「時には泣かないとやっぱりあかんな」

薫は昼間のことを振り返り、似非関西弁で自分に呟いた。

「でも、つねちゃんはつねちゃんしかいないの」

そう言って、リビングにある恒靖の遺影を見つめていた。

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