第8話 きょうだい
律と薫が病院からタクシーで自宅へ戻った。タクシーが停まった音で隣の奥さんが家から出てくる。
「いやぁ~薫ちゃん大丈夫か?」
「すいませんご心配かけて」
病院へ向かう時も、田舎なので救急車が来たとなったらご近所がびっくりしてあちこち玄関先に出て来ていた。
薫が少し立ち話をしている間に玄関の鍵を開けようと律はポケットに入れておいた鍵を探っていると、家の中で岳が吠えているのが分かった。急に二人して出かけたから心配してたのだろう。電気も点けてないし・・・ん?
もう日も落ちているから室内は電気が点いていなくて暗いはずなのに、灯があった。
「あれ?点けて出たっけ?」
鍵穴に刺した鍵をガチャっと回した瞬間、玄関の戸が内側から開けられた。
「え?」びっくりして一歩後ろに退いた律の目に飛び込んできたのは、姉の
「ちょっと!」
と泣きそうで更にちょっと怒りもこもっているその声に、ひゃっと律は肩を
「どうしたの、怜央?」
呑気な口調で声をかける薫に半べそをかいた怜央が「大丈夫?倒れたって聞いたから、ほんま大丈夫なん?」と早口で言う。それを目をパチクリさせて律は見ていたが、薫はハイハイ大丈夫と怜央の肩をポンポンと撫で「ごめん、心配かけて」と言いながら家の中へ促した。岳が薫の足元と律の足元にすり寄りながら小麦色のフサフサの尻尾を揺らして出迎えた。
と、玄関に上がろうとしたらそこに見ず知らずの愛想の良い三十代の男性が立っている。
「誰?」
薫と律は声を合わせて言う。
半袖のポロシャツに少しダボっとしたジーパン姿。ニコニコした中肉中背のどこにでも居る男だった。
「あ、は、初めまして、あの、は、長谷部、
「はぁ・・・あ、はじめまして」
薫と律はまた声を合わせて言う。
「あ、お母さん、航君、あの、その・・・」と怜央が口ごもっていると
「あの、お母さん!怜央さんとお付き合いしている、長谷部航です。よろしくお願いします!」
と立ち尽くしていた航はさっと三つ指をついて床に頭を付けた。
薫と律が慌てて、いやいや顔を上げてと駆け寄り、「とりあえず上がりましょう」と薫の一言でやっとリビングに全員集合した。
急に人が沢山いるリビングの様子に、岳はウキウキしてそれぞれの顔を見上げてリビングの三人かけソファーの真ん中を独占していた。その横に無理やり律がドズンと腰を下ろし岳が少し席を開ける。薫がお茶を入れようとキッチンに向かうと、私がやるからと怜央が電気やかんに水をいれセットした。
「で」と言いながら薫がキッチンのテーブルにつき、その向かいに怜央と航が座った。
「で」と言われて航は緊張が増して、絶対交際のこと、もしかして自分では反対されるのかと心臓が今にも口から出そうなくらい鼓動が激しくなっていた。律はソファーに座り背中越しに何とも言えない空気を察していた。
薫の「で、怜央」と同時に律の方に振り向いた怜央が「律!あんたお母さんのことちゃんと見てんの?」と強い口調で言った。
「は?」律も振り向きつい喧嘩腰で立ち上がる。まあまあと航が怜央の肩をポンポンと撫でると、「お姉ちゃん」と薫が優しい声で微笑んで声をかけ、熱中症になった
途中、お湯が沸き怜央がお茶を入れてくれた。
「で」と薫はまた言う。航の鼓動がまた早くなると
「で、怜央。どうしてお母さんが救急車で運ばれたの知ってるの?」
薫はそう続けて、お茶をごくりと飲んだ。と同時に航が「はぁ」と魂が抜け出たかのような声を出す。皆が航の顔を一瞬見て、航の顔が真っ赤になった。
「あ、マンションのオーナーが権田のおばちゃんから電話があったって教えてくれたん」
「何で権田のおばちゃんが?」
「隣のおばちゃんから権田のおばちゃんに電話が入って、それからオーナーにって」
「わぁ拡散早っ」と律が苦笑いをしながら冷蔵庫を開けた。
「お腹空いたわね」と言いながら薫が夕飯の支度をしようと律の傍から冷蔵庫を覗いた。
「おか~ん、今日はゆっくりしてて」
そう言いながら見た冷蔵庫の中にはいつも何かと入っている薫の作り置きのおかずもない。
「おか~ん、何食べたい?出前でもしょっか」
「あら、作ってくれるんじゃなくて?」
と二人でふふふと笑いながら
「あの蕎麦屋の出前、まだ今の時間やったら大丈夫や。そうしょ」
「あ!私も久しぶりにあの天ざる食べたい!」
怜央もその話に乗ってきた。航も皆がそうならとニコニコして同意し、律が電話で早速注文する。その横で薫は
「で、二人は一緒に住んでるの?」と怜央と航に何の前触れもなく問うた。
ニコニコしていた航が急に立ち上がり気を付けの姿勢でカチコチになりながら言う。
「は、は、はい!いや、住んではないですが、えっと、あの、け、結婚をしたいと思っております!」
「ええ?」と注文しようとしていた律はスマホを落としそうになっていた。
あの蕎麦屋というのは、こっちに越してきた時に初めて食べた引越し蕎麦の中山蕎麦店の天ざる蕎麦だ。大きな海老の天ぷらが二本、南瓜、茄子、しし唐、青葉、玉葱と人参枝豆のかき揚げの豪華な天ぷらの籠とざるに乗った蕎麦がセットになっている。この日は引越しした時とは違い、奮発して上盛だった。
引っ越ししてきた日は、まだ幼い律と怜央、新しい土地での不安を子供達には見せないよう精一杯明るくしていた薫。海老の天ぷらが一本としし唐と椎茸だけの普通の天ざるだった。律はしし唐も椎茸も食べれないからと薫が海老の天ぷらと交換して、怜央は羨ましかったけど、お姉ちゃんだからと我慢して苦いしし唐をその日初めて食べたのだった。
「うわぁ~満腹」
律は満足そうにお腹を擦ってソファーで岳と戯れた。航は食事中も終始ニコニコしながら薫の質問攻めを受けていた。小さい頃から犬を飼っている家庭で、兄と三人兄弟で地元の野球チームに小学校の頃は入っていたそうだ。両親も健在で、今は大阪で美容師をしていてトイプードルを飼っていた。トリミングに連れて行った店が怜央の店で、その縁から付き合いだし、薫が美容師だというのも知っていた。
「怜央ちゃんは小さい頃、よくお母さんに髪を結って貰ってたんが凄く嬉しかったって」
「あらそうなの、ふふふ」薫は嬉しそうに微笑んだ。でも怜央は中学生から長かった髪をボブに切っていた。部活のせいでもなく、もう髪を結びたくないと言って切っていた。
「航君、怜央は我慢強いフリが上手だからよろしくお願いします」
「お母さん何それ!」怜央は少し不機嫌に言う。
「分かります、我慢強いんやけど、どっかで辛そうなんバレバレで」
そう航は少し笑いながら言う。
「航君まで!」
ハイハイ、怒らないでと航は怜央をなだめるように頭をポンポンと撫でる。それをソファーに寝転がりながら見ていた律は、おか~んと同じことするなと航のポンポンを見ていた。薫は岳にもヨシヨシと褒める時、律にありがとうと言う時、怜央にまた帰っておいでと送り出す時、なにかにつけポンポンと撫でる。妙にそれは心が落ち着くお
「なぁ、今日は泊まるの?だったら航君ビール飲まへん?」
ソファーから律が言う。
「いや、明日仕事あるから、あ、そろそろ帰らないと」
航の返事に律はちょっと残念そうな顔をした。
車を槙野駐車場に置かせて貰ったというので、航が車を取りに行こうとした。
「あ、航君、僕も一緒に」と律も後を追った。
薫はその様子を見ながら、りっちゃんお兄ちゃん出来て嬉しそうね、と怜央に囁く。怜央も出前桶に蕎麦の盆などを片付けながら、うんと頷いた。
外は夜十時になって暑さは厳しくは無いとはいえ、蒸し暑かった。槙野駐車場までまあまあ距離があるので岳も散歩だと言って一緒に連れ出した。犬好きの航と岳の話で盛り上がり、初対面の二人だけど結構打ち解けて、律も航が兄になるんだという実感が湧いてきていた。
「航君、あ、馴れ馴れしかったかな?」
「いやさっきからもう呼ばれてるやん」と航が笑うと「そやな」と律は頭を掻く。
「
律は自分のせいで父親が交通事故に遭って、皆が自分を可哀そうだと庇って、姉の怜央はお姉ちゃんだからと何でも二の次で、きっといつも我慢してきていると律が思っていることを伝えた。
「怜央姉は僕のこと恨んでるかもしれへん」
そう言って大きくため息をついた。
航は「恨んでなんか無いって」と微笑みながら律の肩をポンポンと撫でた。そして続けて
「怜央ちゃんはいつも律君のこと気にかけてるの知らんやろ?」そう言って悪戯そうに笑って怜央のことを話した。怜央は父親が亡くなった悲しみはあっても律のせいだと思ったことは一度もない。寂しさは
「今日もお母さんに何かあったら、また一緒に住んでる僕のせいだと思うんじゃないかって、お母さんのことだけやない、律君のことも心配してたんやで」
岳は律の足元に沿って二人の話を聞いているように顔を見上げながら歩いていた。
「律君、気持ちは分かるけど、そんな全部自分で抱えんでもいいんやって。怜央ちゃんのことは俺に任せて、律君は律君の、自分のこと大事にしたらいいんやで」
航はもう一度律の肩をポンポンと撫で、愛想の良いその顔が更に満面の笑みになり「な!」と最後に肩を力強く叩かれた。
「いってぇ~」
律は肩を擦りながら顔をしかめ、それを航は笑ってみていた。
駐車場について車に乗り込んだ航は「じゃぁまたな」と律に手を振って、薫と怜央の元に戻り、律はそのまま岳と散歩がてら歩いて帰ることにした。槙野駐車場の奥の陶芸教室がまた気になり、少し石畳の細い道を入っていくと教室の奥の方に灯があった。暑いので窓は網戸にしているのか、中の音が少し聞こえる。轆轤を回すモーターの音のようだ。目を凝らし入り口のガラスの戸を覗き込むと、電動轆轤の前で井原が何やら作っているようだった。室内の他の電気は点いていないせいか、そこだけスポットライトのように照らされ、手元までよく見えた。滑らかに粘土の上の手が滑り、塊の粘土がキラキラしながら形を変えていく。昼間喋っていた井原とは別人のように、集中している様子が分かる。ほんの数分律も息を呑んでみてたら、井原は粘土の塊から器のような形を作り上げた途端、それをぐしゃっと潰し、電動轆轤を止めた。そして井原は大きなため息をついた。律は気付かれたのかと思い、急いでその場を離れた。走って槙野駐車場の所まで来て、律は大きく深呼吸する。
「今度行ってみるか」
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