第5話 母の愛情がくれたもの

「りっちゃん、もう出かけるよぉ」

薫がお弁当を詰めながら大きな声で律を呼んでいた。岳も玄関とキッチンを行ったり来たりしている。ちょっと呼んできてと薫は岳の頭を撫でると岳は尻尾を振りながら律の部屋へ駆けて行った。

 まだ布団の中の律。と言っても片足は布団から出ていてベッドからもはみ出している。一度薫が起こしに来た時に部屋の戸を開けていたので、岳は駆けてきた勢いのまま寝ている律にガサっと飛び乗った。ウッとあまりの重さに律がうごめく。岳はそのまま律の顔を目がけてペロペロと大きな舌で舐め始めた。ウワッと律は布団を被り直すが岳は負けずに顔を布団にもぐらせる。ゴールデンリトリバーは大型犬で重さも三十五キロはある。律も身長は一八五センチと長身ではあるけれど、さすがに重い。蠢く律を岳はだんだん面白くなって攻め続けてやまなくなった。

「ちょ、ちょっと岳待って、分かったから」

とベッドから転げ落ち床に岳と布団ごとバタッと寝ころんだ。

「待て!」と律のコマンドで岳は長い舌をハァハァと出しながらその場でお座りをした。もう、と言いながら寝ぐせのついた頭を掻いている所に薫がやって来た。

「あら、さっき起こしに来たのに二度寝したの?」と苦笑いをして「とりあえず顔洗って、もう出るから、ね!早く!」と床に寝ぼけ顔で座っている律の顔を覗き込み、その寝ぐせの頭をくしゃくしゃとした。


 車にお弁当と荷物を積み込み、岳は後部座席に乗り込む。あとはエンジンをかけるだけとなったところに、律が玄関から出てきた。

「ごめんね、りっちゃん、折角の休みに」

「いやいいんだけど、二度寝したからちょっとまだ眠い…」と結局寝ぐせのままの頭はキャップを被って誤魔化した律は取り合えず手にしたTシャツとカーゴパンツを穿いたスタイルで玄関の鍵を閉めた。

 薫の愛車の水色の軽自動車の助手席に律が座り、ジーンズとTシャツスタイルの薫がハンドルを握って出発した。

 家から暫く走ると田園風景が目の前に広がる。水田の緑の稲に空は青く広がり開放的な景色だ。そのままひたすら真っ直ぐ車を走らせると琵琶湖沿いの湖岸道路に出る。海のように広い琵琶湖の景色。こっちに越してきて薫はこの景色がとても気に入った。恒靖が交通事故で亡くなってから運転免許も車も持っていたが東京では運転する勇気がなかった。取り留め車を利用しなくても交通機関は充実しているのでそれでも生活は出来た。しかし、滋賀ではそうはいかなかった。自分が仕事をしなければ生活は出来ない。通勤するには最寄り駅は遠いし、循環バスの本数も少ない。近隣の住人は自家用車が交通の主軸になっていた。運転するしかないか…これは薫の第一歩だった。

「おか~ん、車の運転上手くなったよな」

律が欠伸をしながら言う。

「でしょ」少し自慢げな、ドヤ顔をして律に目をやる。続けて

「最初はやっぱり怖かったんだけどね。事故で恒ちゃん亡くなって、運転するって怖いことだって凄く思って。でもね、この景色凄くない?」

「うん」律は窓から琵琶湖へ目をやる。

「大きな湖と青い空、さっきの緑の田んぼ、もうそれが奇麗過ぎて、凄く気持ちよかったのよね」

「うん、僕もこの景色好きやな」律はそう言ったが、薫のように心が解放されるほどではなかった。

「でしょ。安全運転!それを忘れなきゃいいって、権田のおばちゃんの紹介の車屋さんにも言われて、おか~んは決断したのよ。そしたら丁度ヘアサロンの空き店舗もあって、おか~んの世界は広がったのよね」

再度薫はドヤ顔をして律に目を向けた。

そのドヤ顔にフツと吹き出しそうになった律が「分かった分かった。で、今日はそのおか~んのヘアサロンの草むしりと木の剪定をさせて頂きます」と笑いながら言った。

「はい、朝早くから申し訳ありません!」と眉を寄せて薫も笑った。



 薫は元々美容師の仕事をしていた。恒靖が亡くなって育児と恒靖の亡くなった空虚感との闘いで仕事も完全に復帰できないでいた。越してきてからはそうは言っていられない。強くなろうと決めて薫は仕事を探していた。あちこちに土地や物件を持っている権田のおばちゃんがサロン向きの物件を紹介してくれ、それが今の薫の仕事場になっている。自宅から絶景の湖岸道路を走って二十分くらいの木造の建物。琵琶湖の浜辺にすぐ出られ、隣に大きなお寺があった。

子育てと両立の為、完全貸し切りサロンとして一人で切り盛りしてきた。



「あちぃ」

到着して車から降りると、午前七時半。もう随分暑くなっていた。岳も車から降ろしてもらいハァハァといつも通り長い舌を出している。ただ琵琶湖からくる風が心地よかった。

「お腹空いたな」

律がそう言うと、先ずは朝ご飯食べよっか、と薫は持ってきたお弁当を出して「ちょっとピクニック気分ね」と微笑んで湖岸の芝生まで向かった。

「岳、行こう!」

そう言って律は岳のリードを握って駆けだした。

こらこら~、薫は嬉しそうにその姿を追いかけた。

 芝生にシートを敷いて、おにぎりと卵焼き、ウインナー、ほうれん草とコーンのバター炒め、焼いた鮭、キャベツのコールスロー、ポットから味噌汁、朝からちゃちゃっと作った割には豪華な朝ご飯だった。二人の傍で岳も大きなデンタルガムをポリポリ齧っていた。

穏やかな朝。湖の波がザザザと音を立てて砂浜に押し寄せては戻っていた。

「お姉ちゃんどうしてるかね」と薫は卵焼きを頬張りながら呟いた。

おにぎりをかぶりつきながら律は「一人暮らし、満喫してるやろ。あ、そういや、ウグ、怜央れおねぇの部屋も、ゴホッ、ゴ、権田のおばちゃんの紹介?おばちゃん何者なん?ウグッ」口をもごもごしながら話した。

「そうねぇ、大阪にも京都にも、東京にも家があるって噂で、色々物件持ってるらしいわよ」

え~そんな土地持ちってなんか裏の仕事とかしてたり?やばくない?」

律は茶化すようにそう言って、笑っていた。

 実際、引っ越してきた住まいは使っていない夫、恒靖の母の実家だったが、ヘアサロンは権田のおばちゃんが管理している別の美容室のオーナーの知り合いのサロンが店を閉めたから、誰か使わないかと権田のおばちゃんに相談したのが周りに回ってきたのだった。怜央が大阪の専門学校に行くことになった時も、一人住まいをするならと権田のおばちゃんが持っているワンルームマンションを格安で借りることが出来た。その後卒業してそのまま大阪で就職した時も、権田のおばちゃんの知り合いが持っている、もう少し広いマンションを紹介して貰い今は快適な一人暮らしをしている。

物件だけでなく、薫の最初の中古車の軽自動車も権田のおばちゃんの土地で自動車販売店をしているオーナーが激安で譲ってくれて、少し運転に慣れて乗り換えた、今所有の軽自動車もそこで権田のおばちゃんの知り合いだと思い込まれていて、かなり値引きもしてもらった。なんやかんや、権田のおばちゃんにお世話になって今の生活が出来ていると言っても言い過ぎではない。

 朝食の後、二人して伸びたオリーブの木を剪定し、駐車場の雑草をむしってゴミ袋二つに押し込み十時半頃店の中に戻った。エアコンのきいた室内で、岳はへそ天、所謂仰向けにゴロンと気持ち良さそうに寝ている。二人が入ってくるドアの音にも気付かず、時折鼻が鳴りゴゴゴーと鼾(いびき)をかいた。薫と律は顔を見合わせクスっと笑った。

「気持ちいい~」と律は首に流れる汗を拭きながら、お客が座るカット用の椅子にドカッと腰かけた。冷蔵庫から冷えた麦茶を薫は陶器の器に注ぎ、律の目の前に持ってきた。

「ありがとう」

律は器を取り口に着けた。あ、口に触れた時の感触がとても心地良く、頭の中で思わず声が出た。ゴクゴクと飲み干し器を見直す。白くてツルっとした手触りに底の方は色の着いていない部分がザラッとしていた。

「おか~ん、この湯呑み?どこで買ったん?」

片手で持ち上げ目の前の鏡越しに見せ話す。律の腕に残る傷が薫の目に入る。あの事故の傷。

「あ、ん?それ、お客さんが陶芸教室で作ったのをくれたのよ。まぁ先生が殆ど作ってくれたらしいけど。ほら、この青いのとペアで」

と、話を続け薫は律に見せようと鏡に映るよう左手に高く持って見せた。すると律が振り返る。

「その青いのすっげぇ奇麗」

そう言って椅子から飛び降り薫の手から奪い取りまじまじと見る。

「青空みたいでしょ」自慢げに薫が言うと

「うん、澄んだ空の色」

律はじっとその青を見つめて深く呼吸をした。胸がトクンとする。

青いその湯呑みは所々色が薄かったり濃かったり空が平坦でないような色の移り変わりが感じられた。

「どうやって色付けるんだろうね」

薫がそう言うと、うん、と湯呑みから目を離すことなく、律は深く頷いた。自分には無い澄んだ青。心が動いた瞬間が自分でも分かっていた。

「偉く気に入ってるわね。りっちゃんも陶芸習いに行ってみたら?」

「え?」

「槙野さんの駐車場の奥の方らしいわよ。石畳の細い道入っていくとこ。何だっけ、名前、えっと、あ、井原陶芸教室って」

ふ~ん、と律は頭にその風景を描いて地図を想像した。習うかどうかは置いて、気にはなった。心が動くことなどずっとなかったはず。こんなに惹かれるには何か意味があるのかと気になった。

お茶を飲んだからか、余計に汗が目尻を流れて耳から顎下へ流れていく。

「あらあら、髪も汗でビショビショ。久しぶりに髪洗ってあげよっか」

薫が洗髪台の前でおいでと合図をしている。

いいよいいよと照れてる律に、いいから早く来なさいと半ば強引に座らせチェアを倒して

「お客様、お首大丈夫ですか?」

と薫は楽しそうに美容師役をやった。くしゃっと律が笑うと、そのままシャワーから出たお湯で頭をサァと流す。シャンプーを泡立てて優しく髪を揉み頭皮をマッサージしながら

「お客様、痒いところはございませんか?」

と薫はまた楽しそうに問いかけた。

「ないです!大丈夫です、クククッ」

笑いを堪えながら律がお客役をやる。

「懐かしいね。子供の頃、学校休みの時はここで宿題して、遊んで、汗かいて、こうやって頭洗ってたね」

 室内もシンプルな作りで木の床のワンフロア。一人で切り盛りするにはちょうど良い。鏡とカットチェア、シャンプー台が別にあって、窓から琵琶湖の風が入ってくる。

薫は髪を洗いながら小学生の律を思い出す。律は目を閉じながら聞いていた。最近は仕事の付き合いも兼ねショッピングモール内の千円カットで済ませているが、昔は薫に髪を切って貰っていた。平日は学校の終わる時間に合わせて店を閉め、土日はここに連れられ薫の仕事を見ていたな、そう律も懐かしい母の手の感触を感じ思い出していた。ふと目を開け真上の薫の顔をのぞくと、何とも優しい微笑みが見えた。

「ん?どうした?」

薫と目が合いちょっと照れて律は

「そこ、そこが痒いです」と笑って誤魔化し、

「今度は僕がおか~んの髪、洗ってあげるわ」

ボソッと聞こえるか聞こえない声で律が言うと、「ありがと」と薫は返した。

チェアに体を預け胸の上で手を組む律。薫はまたその腕の傷に目をやる。小さなころの傷はもう薄い傷跡になっているが、律の心の中はどうなんだろう。小学五年生以来、事故のこと父のことに触れなくなった律。反抗期もなくとても優しい子に育ったけど、夢を語ったりはしなかった。ただ毎日を消化しているだけのようで心の傷はちっとも薄くなっていないのだろか。


だから、あの日からの二人の時間は落とせば割れる陶器のようで、薫が優しく包んで守ってきた。

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