第4話 悲しい記憶と優しい記憶

 そうだった。小学生の僕には殆ど忘れていた記憶があった。それが徐々に思い出されていた。と言っても三歳の記憶はそれでもぼんやりしかない。


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 戦隊ものの番組を見終えたら、家の中には誰も居なかった。慌てて玄関に向かった僕は重い扉を目いっぱいの力で開けた感覚を思い出す。玄関を出た所に母が姉の怜央を見送り手を振っていた。それははっきり覚えている。

「おか~ん、おと~んは?」朝、父を見送っていない僕は続いて父を探した。母はもう先に出たからお見送りしなくていいよと言ったと思う。なのに僕はハイツの前の道を走り出したんだ。

「おと~ん、おと~ん」と呼びながら小さな体で一生懸命走ってすぐそこの角まで来た所で、後から追いかけてきた母に追いつかれて捕まった。角を曲がるとバス停がある大きな道路に出るから危ないでしょと叱られ、僕はべそをかいた。父はとっくにバス停に着いていると母が言い、抱き上げなだめるのを「おと~ん、おと~ん」と駄々をこね体を揺らしたと思う。確かその後、バス停の手前で近所の人と話し込んでる背の高い父の背中と天然パーマのモジャっとした頭が見えて、僕は母の腕からずりずりと降りてまた父を追いかけた。

 そうだ、父は背が高かった。天然パーマのモジャっとした頭は迷子になった時の目印によくなったのを思い出す。父のその後ろ姿を追い、走り出した僕と同時くらいに立ち話していた父が歩き出したので「おと~ん」と大きな声で僕は叫んだ。そうしたら父が振り向いてくれたんだ。

「おぉ律!」そう言ってにっこり笑って手を挙げて合図してくれた。その後すぐ、大通りから車がすごいスピードで曲がってきた。僕の方に向かって迫ってきた…。

その後は腕が痛くてただ泣いて、わんわん泣いて生まれて初めて救急車に乗って…

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 小学五年生の律は食卓の椅子に腰かけ、薫の話を聞きながら記憶を辿っていた。


「りっちゃんがおと~んに助けられたのは事実。車が角を曲がるのにスピード落とさず突っ込んできたのを恒ちゃんが気付いてりっちゃんを押し退けててくれたから腕の骨折で済んだの」薫はお味噌汁に入れるねぎを刻みながらそう言った。

「じゃぁ僕のせいでおと~んは死んだん?」

ねぎを刻む手が止まり、薫は律の顔を見て

「違う。恒ちゃん、おと~んは頭を打って意識が朦朧もうろうとしていたけど、最後まで律のこと気にかけてた。律は無事か?って。大丈夫よって言ったら安心した顔をしたの。律が無事なことが一番大事だったのよ」

そう言って薫の目に涙が溜まっていくのが分かる。

「やだ、ねぎ刻んだから目に沁みちゃった」と慌てて笑って薫はねぎを刻み続けた。

「あ、でもこれ玉ねぎちゃうやん」

薫は慣れないノリ突っ込みを続けて言って湯気の上がった味噌汁の鍋に刻んだねぎを入れた。


 暫くして中学生の怜央が帰宅し妙な空気を察知した。律と目が合ったが、その視線をテーブルに置いていた菓子パンへ移しそのままそれを握ってまた塾へと出かけて行った。


 律は恒靖が車に轢かれ、慌てて来た祖母の顔、事故以降近所の人の腫物を触るかのような自分への接し方。常に可哀そうにと言われること、その後の夏休みの暑さ。いつもの青い空に白い入道雲がもくもく見え、ずっと蝉の声がしていた。何も変わらない夏休みに、腕が使えなくてボールをちょろちょろ蹴って遊んでいた、孤独な夏の記憶。


 そんな記憶をふいに思い起こされた小学五年生の律は暫く誰とも口を聞けなかった。

『僕のせい』全部全部、僕のせいなんだ。ここへ引っ越してくることになったのも、僕のせい。きっと姉の怜央もそう思っているに違いない。弟のせいで父を亡くし、転校することになって、僕を嫌っているに違いない、そんな思いまで抱え怜央とも話が出来なくなった。元々静かな少年だったけれど、それから半年くらいは学校の授業で発言する以外は全く言葉を発しなかった。


そうして僕の心に蓋をした。


 それでも毎日、乾真司は遊びに来てくれた。学校でも話しかけてくれた。律の前で面白い話をしたり、お道化てみたり、ギャグを考えたから聞いてくれと披露してくれた。薫は乾の優しさがありがたくて、いつも笑顔で迎えていた。


 ある日、乾が律に言った。

「りっちゃん、お前生きてくれててありがとう。そりゃぁおと~んが生きててお前も生きててくれたらもっとええけどな。でも両方死んでたら俺もお前に会えなかったやん。お前のおと~んはりっちゃんの命を救ってくれて俺に会わせてくれたんや。俺はお前に会えて嬉しいから、俺はお前のおと~んに感謝してる。助けてくれてありがとうって思ってるで。あかんか?」

いつものように、律の家の縁側に二人腰かけて、奥のキッチンで薫がジュースを入れていた。律は黙って乾の言葉を聞いて、薫が持ってきたそのジュースを一気に飲み干した。





「まだなんか引っかかるんか?」

そう乾に言われた律は小学五年生の出来事を思い出しながら、久々に家に来た乾をもてなす薫を見て「いや別に」と微笑んで答えた。分かっている、自分のせいだとしても誰も自分を恨んでいない。薫も姉の怜央と分け隔てなく愛情を注いでくれていたし、あの日、蛍の母親が言った話を聞いても乾もその時いたクラスメイトも変わらず接してくれていた。自分の気持ちは流石に晴れ晴れとはしていないが、乾にかけてもらった言葉で気持ちが少し軽くなったのは事実。凄く感謝している。

と、同時にあの時いた蛍はあれからどうしたんだったっけ。

「なぁ、香川かがわ)蛍《ほたる、あの時いたあの子、どうしたっけ」

律が乾に聞くと「さぁ?中学から私立に行ったから知らん」と素っ気ない。

「少しふっくらした女の子だったわね」と薫が言うと

「ふっくらどころか丸かったなぁ。それしか覚えてへん」と乾は失礼にも笑いながらそう言った。

確かに少しふっくらした女の子だった。あの後、乾に着いて何回か家にも来たと思う。絵を描くのが得意で図工の時間によく先生に褒められていたのを覚えている。


「あぁおなかいっぱいやわ、おか~んご馳走様」と乾はおなかを擦ってソファーへ寝ころんだ。

「お前、他人ひとんちてこと忘れてるな」

と律は苦笑いして乾に覆いかぶさり「やめてやめて」と乾が足をバタバタさせ、二人でケラケラ笑っていた。その様子を微笑ましく薫は眺めお皿を下げながら嬉しく思っていた。保育園で蛍の母親のようにヒソヒソ話されることに神経を使い、子供達のこと、これからのこと、色々考えて引っ越しを決めたのに、世の中狭すぎて、いつか律に話そうと思っていた事実を、思いもかけない形で伝えることになり心を痛めていた。薫にとっても、乾が律の傍に居てくれたことは大きかったのだ。

本当にありがとうね、薫は心で何回もその言葉を呟いていた。

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