第15話 対極の隣人、天野星

 机に向かって、教科書とノートとを開いて、シャーペンを走らせる。

授業をさぼりがちな私の休日は、この一週間の自分の行いを帳消しにするためにある、あった。

 少なくとも先週までは。


「あ、そこはですね、この公式を使うために式を展開して——」


 ——やっていることは変わっていない。本質的には。

ただ、隣に人がいて、勝手に喋って、頼んでもないのに私の学習を手助けする人がいるだけ。


 

 今日の天野さんは昨日と違って元気で、普段の私が起きる時間より早い時間に天野さんに起こされて、普段と違って強引に朝ごはんを食べさせられた(もちろんついてきたし私の目の前で美味しそうな顔をして食事をとっていた)。

 部屋に戻ってきて一息つこうと思った矢先、天野さんに「今日は何かする予定とか、あります?」と聞かれた。「別に。勉強をするだけだけれど」と答えたら、なぜかこうなった。天野さんは私を一人にしてくれない。


 こうなるまでに「え~、どこか遊びに行きましょうよ~」と言われたけれど、そのつもりはないと断ったらすんなり引き下がった。

 その代わりなのだろうか、私が机に座るとさも当然のように私の隣に椅子を持ってきてノートを広げだした。一人分と想定されている机はもちろん手狭で、天野さんの眼の前には机が半分も広がっていない。どう考えても窮屈だ。


「天野さん、狭くないの?」

「う~ん、大丈夫です! あ、もしかしたらもうちょっと寄ったほうがいいですか?」

「いえ、貴方がいいならいいわ」

「は~い、私は大丈夫です!」


 らしい。ならいいか、と目の前の教科書になおる。


 天野さんの教え方はわかりやすい。さすが授業にしっかり出ているだけあるし、きっと先生の言葉をしっかり聞いているのだろう。ノートにも先生の発言のメモのようなものがあるし。模範的ないい生徒だ。授業にもでない、話も聞かない私とは正反対。

 そんな二人が同じ部屋にいて、こうして過ごしているなんて誰が考えるだろう。似ていない二人がこうしているのは、傍から見れば不思議な光景だろう。私もお似合いだとは思っていない。天野さんが勝手にしているだけ。


 気に入らないけれど、助かってはいる。実際、私が普段終わる目安にしている時間よりも早く片付いた。自分の間違った予想で今週の範囲よりも多く予習してしまうことも、天野さんのおかげでなかったのもある。癪だけれど。

 

 時計を見るとお昼には遅くておやつには早い。食堂はまだやっているから、とりあえず昼食にしようとノートと教科書を閉じて立ち上がる。


「お昼ご飯ですか?」


 私の動きを察したのか、自分の腹の虫の都合なのか、天野さんが座ったまま聞いてくる。「えぇ、ついてくるなら勝手になさい」といって部屋のドアへと向かおうとすると、急に手をつかまれて、振り返る。


「それなら、外に食べに行きませんか? ちょうど行きたいカフェがあるので!」

「……勝手に一人で行けばいいじゃない」

「え~でも、私お勉強教えましたよ~? お礼ぐらいあってもいいんじゃないですか~?」


 上目遣いでくねくねと、あざとい子供が親にねだるように、掴まれた手をゆすって私に訴えかけてくる。


「……教えてくれたのは助かったけれど、教えてと頼んでもないし、勝手に貴方がしただけでしょ」

「もーぅ、つれないですねー。 そんなだから周りに人がいないんですよー」

「余計なお世話よ」


 掴まれた手を振りほどいてドアを開ける。天野さんは椅子から立って私を追いかけるようにしてついてくる。しっかりと部屋の電気を消してから出てくるあたり、やっぱり優等生だ。


 玄関で靴を履いて、扉を開ける。寝ている間に雨が降っていたのか、朝には無かった温度と湿気が肌を這うよに纏わりつく。

こんな中外に出る用事なんてないほうがいい。できるなら食堂にも行きたくない。それに、寮の廊下でこれなら、建物の外に出ればもっとひどいだろう。


「そういえば、これかけてくださいよ。 私の身長じゃ届かなくって」


 後ろを向くと天野さんが自分の名前の書いてあるベージュのネームプレートを持って渡してくる。プラスチックでできたそれは仄かにひんやりと冷たくて、触ると心地よい物だった。

 昨日も掛けようかとは思った。私なら届くし、本来そこにあるべきものだ。


 ……でも、目の前で掛けるのは少し、もやもやする。言葉が思いつかないけれど、少し戸惑う。

 それに、昨日は掛けないで今日は掛けるなんてことをしたら、何か別の意味があるみたいに捉えることもできなくもなくて、釈然としない。

 もちろんこんなことを考えているのも、昨日掛けようとして辞めたことも、天野さんは知らないから、私が勝手に考えているだけ。

その行為に意味があると思ってしまうのも、私が勝手に考えているだけ。


 天野さんに目をやると、こっちの気も知らないで、私が掛けてくれると信じてやまない眼差しと笑顔が目に入る。空は曇っているのに、光が反射しているみたいに眩しい。


「……わかったわよ」


 これは私の意志でやってるのではない、天野さんがやれというからやる。ただそれだけ。昨日と今日の私に変化はない。

そう言い聞かせながら、ベージュのネームプレートをフックに掛けた。『草下』の隣に『天野』が並ぶ。


 そこに意味はない。意味を探すのも意味がない。そう思いたい。


 もやもやとした思考とじめじめとした外気を振り払うように食堂への廊下を歩く。

 少し遅れて天野さんが私を追いかけ、隣に並ぶ。

 今日は何を食べるのかだとか、何を食べようかだとか、席が空いているかだとか、そんな他愛のない話を私に投げかけてくる。

 これが天野さんでないなら耳も貸さないし、横に並ばれないように足を速めるだろう。


 でも天野さんにはしたって意味はない。

 やったとしても、どうせ同じく足を速めて隣に並んでくるから意味がない。だからしない。

 それに、私より小さい身長の人間を、私と同じ速度で歩かせるほど私は鬼じゃない。

 少なくとも、天野さんに対しては。


 心の穴に吹く風が少し和らぐ。

 風が弱くなったのか、穴が小さくなったのか。

 どちらでもいいけれど、こんな日常も悪くないと思った。

 纏わりついてくるなら、湿気を含んだ外気より、明るい星のほうがよっぽどマシに思えるから。

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