第14話 綺麗な月の表面
『ありがとうございます、受け入れてくれて』
その後、草下さんは特になにも言わなかった。
はいともいいえとも、うんともすんとも言わないで、眉間に皺を寄せたり目を閉じたりしながらフィッシュバーガーを咀嚼していた。たまにこっちを見たり目を逸らしたりしながら食べ終えると、ごみをまとめてそそくさとシャワーを浴びに行ってしまった。一人取り残された私は、かすかに聞こえる水音を聞きながら自分のベッドに寝ころんだ。
私には電池切れする日がある。今日の朝みたいに、今みたいに、無気力で愛想もなくて、何もできない日がある。草下さんが居なければ、食事さえとらずに寝ていたに違いない。
昨日は週末どこに行こうかだとか考えて眠ったのに、いざ起きてみればこうだ。なんとも自分が情けなくなるけれど、どうにもできていないからもうどうでもいい。
私という人間がこの社会で生きていくにはオンの私のほうが適切で、オフの私は求められていない。それは私も理解している。そうしようと努力している。
でも、常にオンの私でいることは不可能だ。理想が高く完璧主義者だった昔の私は、それで一度死にかけた。心が突然折れて、すべてがどうでもよくなって、この先の人生に光を見いだせなくて、辞めてしまおうと思った。そうすれば、解放されると思った。
でも結局私にはできなかった。
その時に知った。私は「私の理想」にはなれないと。
今思えば、その時にオフの私が生まれたのかもしれない。すべてを諦めて、生命活動が停止するまで待つだけの私が。
——そんなことを考えていても仕方がない。今日はダメでも明日がある。
そう思えるくらいには立ち直れているから、そこまで深刻に考えるほどのものでもないはずだ。
それに、今は草下さんという絶賛興味の対象であり、大げさに言えば生きる意味を与えてくれる人がいる。かなり大げさだしそこまで考えもしていないけど。
草下さんがいるだけで毎日は楽しいし飽きない。相手が相手なら、リア充と呼ばれてしまいそうなほど充実している。
昨日抱いた期待が、冷たくなった胸の奥に再び宿った。
その後、なにもなく時間が過ぎた。もちろん、私達の中に会話はなかった。不思議と気まずくはなかった。きっとオフの私が、善くあろうとすることを諦めているからだと思う。
私はずっとベッドにいて、草下さんはずっと机に向かって、私に背を向けていた。部屋の電気はつけないで、机に付属しているライトだけが部屋の中で光っていた。
ふと気付けば食堂が空いている時間になっていた。私の体調も少し元気になっていて、ご飯を食べに行くくらいはしようと思えた。オンの私であろうと思えるほどではないけども。
今日一日ずっと横たわっていたベッドから体を起こして、見られても恥ずかしくない最低限の身なりをして、ドアに手をかけると、後ろで椅子から立ち上がる音がして、振り返ると草下さんがこっちに向かってきた。
「……なんでしょうか」
「食堂に行くんじゃないの?」
「そう、ですけど……」
予想もしていない草下さんの行動に戸惑ってしまう。
この前は私が誘って、渋々ついてきてくれたのに、草下さんから何も言わないでついてきてくれるなんて。どういう風の吹き回しだろう。
思考をぐるぐるしていると、草下さんは機嫌を悪くしたみたいに眉間に皺を寄せる。
「なに、嫌なの?」
「いえ、嫌じゃない、です」
「…………そう」
よかった。と聞こえた気がした。
人がそこまで並んでいない二基の券売機の列に二人で並んで、私はチキン南蛮定食の食券を買う。後ろに並んでいた草下さんは空いた隣の券売機の前に立って、一瞬悩んで、結局何も買わないでパンを売っている購買に向かっていった。
今の一瞬で本当に悩んだのだろうか。もとから何も買う予定がなかったようにも見えるほど、短い時間だった。
持ってきたお茶のペットボトルで二人分の席をとって、カウンターに向かって食券を調理師さんに渡して待つ。
すると大きいクリームパンとカフェオレを持った草下さんが寄ってきたから、とっておいた席を教えた。
人はまばらでそんなに混んでいないのだから、適当にそのあたりに座ればいいのに。もしかしたら、席を取っていたところを見ていたのだろうか。
草下さんは教えられた席に向かって、座って周りを見渡して、スマートフォンをズボンのポケットから出して触りだした。
この前は私を待たずにメロンパンを食べだしたのに。
時間がなかったからかもしれないけれども。
出来上がったおいしそうな晩ご飯をトレーごと受け取って、調理師さんに感謝を伝えて席へ向かう。近づくと草下さんはこちらに一瞥もしていないのに、スマホを机において私のほうに向いた。
気配でもわかるんだろうか。気配を隠しているわけでもないけど。
「食べないんですか?」
「……今から食べるわよ」
「もしかして、待っててくれたんですか?」
「…………いただきます」
答えは返ってこなかった。丁寧に手を合わせて「いただきます」するものだから、私も目の前のとっておいた席に座って、遅れて「いただきます」してから温かいチキン南蛮に手を付ける。
揚げられた鶏肉とタルタルソースが調和して、口の中を賑やかせる。そこに白ご飯を放り込めば夢見心地だ。五臓六腑に染みわたる美味しさ。
視線を目の前の皿から外して前を向くと、大き目なクリームパンをかじっている最中の草下さんと目が合う。見つめ合ったまま、お互い口の中の物を咀嚼する。口の中の物は変わっていないはずなのに、味がわかりにくくなっているし、飲み込みづらい。
それは向こうも同じようで、微妙な顔をしながら口を動かしている。
なんだろうかこれは、と口の中と同じように飲み込めない考えをぐるぐると巡らせて、やっとのことで口が自由を取り戻した。
「……あの」「……ねぇ」
「「……」」
言葉がかぶって、口の中に何も入っていないのにまた無言の時間が流れる。
目が合って、口は動いてなくて、手は止まっている。
「——草下さん先にどうぞ」
「えぇ、……その」
目が合わなくなって、宙を泳いで明後日の方向に向かって、しばらくしてから帰ってきた。目に自信がなくなっている。
「…………おいしい?」
「——ぷっ」
「な、なによ、おかしい?」
「だって、ふふっ。そんなに溜めていう事でもなかったので、おかしくて」
私は笑って、草下さんは困った顔をして少し机に乗り出した。でも機嫌は悪そうに見えない。怒ってもいない気がする。
「……はぁ、おいしいですよ。あの私じゃなくても味覚が変わりませんから」
「そう……」
はぁ、と息を吐きだしながら草下さんは椅子に座りなおした。
さっきから草下さんが変だ。
何も言っていないのに食堂についてきてくれるし、 買いもしないのに券売機の列に一緒に並んでくれるし。席についても私が着くのを待ってくれたみたいだし。
「草下さんっ」
「……なに」
「——優しいんですね」
私はこう受け取ったけれど、という意味を込めて聞いてみる。
「………………べつに」
はぁ、とため込んでいたような息を吐いて、力が抜けたように肩が下がる。
そして、頬がすこしだけ紅い。
私の問いの答え合わせには十分な一言だった。
草下さんの不器用な優しさは、疲れていたオフの私の心を癒すのに十分な温かさで。
確証はないけれど、この人と居られれば、毎日はきっといい日になりそうだと思った。
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