第9話 挨拶ができる人は解説もできる
「たっだいま~」
玄関から帰りを知らせてみるけど、返事はナシ。足元にローファーはあるから、草下さんはいる、はず。この前みたいに寝ているかもしれないけれど。
廊下を歩いて、部屋のドアを開くと、草下さんが机に向かって座っている。もう一度「ただいまでーす」というけど、やっぱり返事はない。
よく見ると、イヤホンをしている。普段は見えない耳が、髪が掛けられて見えていて、いつもと雰囲気が違う。
草下さんの新たな一面、というほどでもないけれど、知らない草下さんを見られて楽しい。
でも、挨拶を無視されたのは悲しい。いくら草下さんが会話のキャッチボールが苦手で、返事がそっけなかったとしても、無視はさすがにくるものがある。生返事の一つや二つくらい返してもらわないと面白くない。
そうだ、良いことを思いついた。
気付かれないように背後に回って、草下さんの方をポンポンと叩く。イヤホンを外して草下さんが振り返ると同時に、人差し指以外を握って指差し。
むにゅ。
草下さんの意外と柔らかい頬に私の人差し指が刺さった。よくある悪戯だ。
「………………」
「……」
草下さんは喋らない。私もあえて喋らない。
草下さんから「おかえり」の四文字をしっかりと聞くまで、この綺麗な顔に人差し指を突き立て続け、私のかわいい顔に笑顔を張り付け続ける。
「…………なに」
「帰ってきましたよ、草下さん」
「そう……」
「……」
指は納めない。笑顔も変えない。普段笑わない草下さんがこんなことをしたらほっぺが痙攣しだしそうなくらい笑っている。
「……まだなにかあるの?」
「はい、まだ何か足りませんよ」
「その労力に見合うものなの?」
「はい! まだ草下さんから一回も聞いてませんから!」
「そう……」
視線が私を見て、壁を見て、床を見て、天井を見て、机を見て、また私に帰ってきた。
振り向き続けて首が痛くなったのか、観念したのか、机に向かいなおして、ため息を一つ吐いてから、消え入りそうな声で「……おかえりなさい」と聞こえた。
「はい、ただいまです!」
非常に満足したから、シャワーを浴びるために着替えを共用のクローゼットから出して、部屋を出る。ドアを閉める時に「何だったの一体」と聞こえた気がした。
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シャワーから上がってきても、草下さんは机に向かって、さっきと違って片耳イヤホンをして、教科書を睨んで難しそうな顔をしていた。せっかくの綺麗な顔が眉間の皺のせいで台無しだ。
ノートを覗いてみると、今日やった数学の範囲を一人でやっているようだった。
「あ、そこの範囲のノートありますよ。 見せましょうか?」
「いらない、一人でできる」
「でも、そこの問題今日授業でやりましたけど、公式の活用知ってないと難しくないですか?」
額の皺が少し険しくなる。あぁ、美人がなんて顔をしているんだろうか。
「……ノートだけ貸して」
「はい! 解説もしてあげますね!」
「いらない、ノートだけでいいから」
「いーえ、私のノートなんですから、私が解説したほうがわかりやすいにきまってます!」
「……好きにしたら」
「はい! 好きにします!」
満面の笑みで指定鞄から、クラスメイトに貸して帰ってきたノートを取り出す。
私のほうの机の椅子を持って行って隣に座ったら、なんだか言いたげな顔をしていたけど、結局何も言わないでイヤホンを外して、私のノートと解説を受け入れてくれた。少し嬉しかった。
でも、髪は耳に掛けたままの草下さんをもう少し見たかった。そこだけは少し残念。
この二日で分かったことがある。
草下さんは押しに弱い。ぐいぐい行ったら大体のことは許してくれる。
そしてやっぱり、ちょっと私の胸が気になっていそうな視線をたまにくれるという事だ。
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