草下さんは穏やかに暮らしたい

第6話 草下さんの朝食拒否作戦報告書

「……ださーい」


 底なし沼に沈んだ意識を、いやに明るい声が引きずり出そうとする。


「草下さぁーん、起きてくださーい!」


 ゆっさゆっさと体を前後に揺さぶられる。こんなことをされたら嫌でも意識は戻ってくる。 でも目は開けない。


 絶対嫌だ、私はまだ寝たい。

 昨日はなぜか、いつもより寝付きが良かった。

いつもは目を閉じても何時を過ぎてもやってくることのない睡魔が、昨日はすぐに迎えに来た。


「もーぅ、食堂がしまっちゃいますよー」


 だからといって、早起きできるわけじゃない。

……正しくは、普段では考えられないほど早く寝てしまって、だからさっき変な時間に起きて、今は二度寝という名の至福の一時を味わっているのだから、起きたくない、目覚めたくない。


 朝ごはんだって、いつも食べていないのだから大した問題ではない。

 それに、天野さんと一緒に食べるなんて約束はしていないし、他人とご飯を食べる習慣は私にはない。


「仕方ないですね、こうなれば奥の手です……」


 当分の間できそうにないけれど、今起きるのも面倒だからこのまま寝たふりを貫き通して、天野さんが諦めた後にもうひと眠り——。


 バサッ!という音と、急に消える私を包み込んでいた温かさ。

布団が剥がされ、外気に触れて全身が急速に冷やされる。

感じていた温もりは肌寒さに変わり、ぶるりと全身が震える。


 流石の急激な状況の変化に、閉じ続けていた目を開けた。


「もー、制服で寝たらしわが付きますよ! 着替えてから寝てください!」

「……朝から説教なんて聞きたくないのだけれど」


 布団を剥がした本人は私の前で仁王立ちして、まるで母親のようなことを言う。母親といる時に制服のまま寝たことはないから、実際言われるかはわからないけれど。


「ほら、食堂行きますよ!」


 私の腕をつかんで引っ張って、まるで決定事項みたいに言う。私の意見なんて聞かないということだろうか。基本的人権を尊重してほしいものだ。


「……じゃあ、貴方が私を起こせたら行ってあげる」


 きっと天野さんは私を起こせない。腕を引っ張るだけで人を起こすには、本人の起きる意思と筋力の手助けがいる。


「もー、甘えん坊ですね。わかりましたよぅ」


 でも、私に起きる意思は一切ない。

私の筋肉も私の言うことを聞くから、起こす手助けもしない。


つまり私は起こされないというわけだ。


 自信満々に天野さんを見る。こんなに自信にあふれた自分は久しぶりだ。

なんて気分がいいんだろう。



 はぁ、とため息を吐きながら困った顔の天野さんが私に近づいてくる。

近づいて、私の腕を——掴まない。寝ている私の脇腹の横当たりに手をつく天野さん。


 「えっ」


 天野さんはそのまま近づいてくる。天野さんの影が私を覆う。

ゆっくりと私の顔に迫る天野さんの顔。少し垂れ目なまっすぐな瞳、困って下がった眉、しっかりと施された化粧、もちもちしていそうな頬、綺麗に色づいた唇。

 いつもよりはっきりと、しっかりと見ることのできるそれらが私の視界を塞ぐ。鼻腔をくすぐるいい香りのする髪がカーテンのように垂れて、周りが見えない。

私と同じシャンプーのはずなのに、違う香りがする気がしてならない、なんて考えている場合ではない。


 思わず目を強く瞑る。思考を完全に手放す。反対に体は強張って固まる。


あぁ、私の初めてが。



 ……と思ったのに、しばらくしても何も起きない。


 私の唇に触れるであろうと思い込んでいたものは私の顔のすぐ横を通り過ぎて。

 ベッドについていたはずの天野さんの手は私を抱くように背中に回されている。

 天野さんの吐息が耳にかかる。温かくてソワソワして落ち着かない。

 体の前面がどこも柔らかい。とくに胸が当たってるあたり。なお落ち着かない。


「よぉーいしょっと」

「ひぃん」


 そんな私なぞ露知らず、そのまま抱き上げるように上半身を起こされる。

汚れてもいないのに、ぱんぱんと手を払う。別に私汚くないし。

 

「起きましたね。さ、朝ごはん行きますよ! お腹ペコペコなんですから……」


 なんともなかったかのように、スカートを翻して玄関に向かう天野さん。


 まるで私が一方的に勘違いしていたみたいな気分になる。

心臓はその証拠と言わんばかりに、未だ激しく跳ねまわっている。


「…………ばか」


 かくして私の、完璧と思われた朝食拒否作戦は失敗に終わった。



 ——それに、別にこれが初めてというわけでもなかった。

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