第3話 「はじめまして」が言えた日
退屈な今日の授業も終わり、鞄に教科書を詰めて席を立つ。
クラスメイトの何人かに放課後遊びに行こうと誘われたけれど、また今度と実現するかもわからない約束を笑顔で取り付けて、寮の自室へと急ぐ。
私がクラスメイトに足止めを食らっている間にも、草下さんは教室を出ていた。少し走れば追いつけるはずだ。
気持ちスキップ実態小走りで廊下を駆けると、部屋に入ろうとしている草下さんを見つけた。
「草下さぁーん」
「……誰?」
眉間に皺を寄せた草下さんが怪訝そうに尋ねてくる。
「えーっと」
ノブに手をかけて止まっている草下さんの隣に駆け寄り、鞄の中からベージュのネームプレートを取り出して、扉の横の『草下』の隣のフックに掛ける。
……掛けようとしたけど、身長が足りなくてうまく引っかからない。ジャンプはしたくなくて、つま先立ちしたけどそれでも厳しい。
悪戦苦闘の末に足がプルプルしてきたから、素直に諦めてネームプレートを直接草下さんに見せる。
「天野さん、ね」
「はぁーい、
「……勝手にすれば」
私のことを置いて、草下さんは先に部屋に入って扉を閉めてしまった。
隣で見てないで、代わりに掛けてくれたらよかったのに。
自分ではどうしようもない高さにあるフックを恨めしく思いながら、部屋に入る。
玄関の靴置きの上にネームプレートを置いて、ローファーを脱いで揃えてリビング兼寝室の私達の部屋に向かう。
玄関と部屋の間の廊下にはいくつかダンボールが積んである。きっと私の荷物だろうけど、荷ほどきは後にする。
お楽しみのあとで片付ければいいや。
昨日とは違って、大きな期待を胸にリビングの扉を開けた。
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「……って、なんで寝てるんですかー!」
部屋に戻ってブレザーと不快な靴下を脱ぎ捨て、関わってこないでという意味を込めて布団に頭までくるまっていると、今まで私の部屋でしたことのない大きな声が布団の中まで響いた。
どうやら私の意図は伝わっていないみたいだ。
「別に、いつ寝ても私の勝手でしょ」
「だーめーでーす! まだ自己紹介もしてないですし、私草下さんの事なにも知りません!」
「天野さん、でしょ。知ってる」
「そーうーじゃーなーくーてー!」
頭を布団から出して、はぁ、と相手に聞こえるように大きくため息を吐く。背を向けて、顔は見ない。
「私の事なんて、噂で嫌というほど耳に入ってくるでしょう」
「でも私、草下さんからは何も聞いてないですよ?」
「……なんの嫌がらせかしら」
新手の嫌味だろうか。
私の口から私の悪評を話せとこの子は言っている。
自分がしてきた悪行を、自ら明かせとこの子は言っている。
気に入らない。
どうせこの子も私と過ごしていくうちに私のことを知って、失望して、そう遠くない未来、この部屋を去っていく。今までと同じように。
結末が同じなら、私が労力を割く必要はない。
人間関係は、悩みの種だ。少ないほうが私の心の安寧は保たれる。
相手を知れば知るほど、失ったときに空く穴は大きくなる。
「……私は、前の学校でいじめられてました」
「は?」
何を急に言い出すんだろうか、この子は。
唐突な話題に思わず振り返り、顔を覗く。
緩く巻いて整えられた前髪に、おっとりとしたたれ目。薄い化粧は校則に引っかかることはなく、誰からも好印象を得られるだろう。
私とは対極にいるような人だ。
そんな彼女が、真剣そうな顔をして私に向いている。
「最初は少人数が私のことをこそこそと言ってくるだけだったんですけど、そのうちあることないこと噂されて——」
「もういい。わかったから、それ以上はやめて」
放っておけば聞いてないことまで、聞きたくないことまでペラペラと喋りそうな天野さんを制止して、布団から抜け出す。
「だから私、噂って信じてないんです」
「……そう、わかったわ」
はぁ、ともう一度大きくため息を吐く。
どうやら私は、面倒な人間と同じ部屋になってしまったみたいだ。
……それはこの子も同じか。
ベッドから立ち上がり、体を天野さんに向ける。
背の小さい天野さんは、すぐそばで私の顔を見るのは辛そうだ。
「私は草下華、知りたいことは聞いて。すべて教えるとは限らないけれど」
「——はい! はじめまして、草下さん!」
初めて見た天野さんの笑顔は、星のように明るかった。
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