第2話 聞いてた話と少し違った

 夢を見た。

楽しい日々と、私がこの学校という社会で暮らす中で避けられない運命のようなもの。

 人というのは愚かな生き物だ。群れなければ生きていけないのに、群れるには幾らかの犠牲を払わなければならない。その犠牲というのには、弱者や特異な人間が選ばれる。集団の中で目立つというのは、大いに危険を孕むことだ。




 霞がかったぼんやりとした意識が徐々に現実を認識する。

知らない天井、電気のついていないシーリングライト、今までと違う部屋の香り。ふんわりと体を覆うベッドと布団。

じんわりとした額の痛みが私の意識をより早く覚醒へ導く。



「目が覚めたかしら」


 聞きなれない声が私の鼓膜を震わせ、意識と視線が天井から向かう。

知らない顔が私をのぞき込んで、影を落としている。

端正な顔立ち、長いまつ毛、切れ長で綺麗な瞳。

そう、たしかこの人の名前は……。


「草下さん?」

「痛みはないかしら。今日はもう遅いから、明日保健室で見てもらうといいわ。」

「あ、あの……」

「じゃあ」

「あの!」


 私に背を向けて、部屋を出ていこうとする人に声をかける。

ふりかえった草下さんは、機嫌の悪そうな、眉間に皺を寄せた綺麗な顔を私に向ける。


「……何でもないです」

「そう」


 機嫌の悪そうな彼女は、バタンと大きな音を立ててドアを閉めて私の視界から消えた。

 本当はなんでもある。

どうしてあの時間に寝ていたのか。学校はどうしたのか。私に何を投げつけたのか。

私をベッドまで運んだのは草下さんなのか。私の寝顔を見たのか。

 そして、なぜそんなに機嫌が悪そうなのか。

 不満は山のようにあるけれど、そのどれもが今のあの人に聞いても答えは得られなさそうで、というかいかなる人間でも、あの機嫌では話しかけにくいし、答えは得難い。

人の表情や感情に敏感に生きてきた私に身に着いた、当然の習性だった。


 しんと静まり返った部屋には、時計の秒針の音と水の粒が床を叩く音。きっと雨ではなく、部屋を出ていった草下さんがシャワーを浴びている音だろう。

時計はすでに26時を指していて、よくこの時間にシャワーなんて浴びるなと思う。


 ベッドから背中を引きはがし、ズキズキと痛むおでこに手をやると、ピタリと冷たい感触。絞り切れずに水を多分に含んだ濡れタオルが胸の上に落ちる。冷たい。

ベッドの横に置かれているサイドテーブルには、水の入った桶としおりの挟まった文庫本。タイトルは暗くてよく見えない。

 たぶん草下さんが置いたものだろう。つまり、私の看病……とは違うけど、面倒を見てくれていたみたいだ。

 今日クラスメイトに聞いた噂は嘘なんじゃないか、と思う。

なんせ、血も涙もない冷徹な人間だとか、人に興味がない薄情な人間だとか聞いたものだから、目の前の気遣いの跡とイメージが合わない。

 

 びしゃびしゃの濡れタオルを桶に戻して、ベッドに倒れ込む。

 今日はもう寝よう。まだ水の音はしてるし、草下さんはすぐには戻ってこないだろう。今日のうちに自己紹介を済ませておきたかったけれど、あの調子だといいいイメージを与えられそうにない。

だからと言って、明日なら楽しく話せるかと言われると、そうも思えないけれど、少なくとも私が心のスイッチを切り替えることはできる。今はもう何もしたくない。

 瞼を閉じると、目の上から伝わる痛みが睡眠を妨げそうだと思ったけれど、そういうわけでもなかった。




 朝起きると、ベッドには草下さんの気配はなかった。額の痛みは引いて、保健室に行く必要はなさそうで安心する。

時計を見ると、遅刻するほどでもないけど、悠長にはしていられない時間だ。


 制服のまま寝てしまったから、少し皺になっているけれど、着替えもまだないからそのままの格好で準備をする。

服が濡れないように顔を洗って、歯磨きをして、ヘアアイロンを温める間に軽くメイクを済ます。ヘアアイロンが準備できたら髪を巻いて整える。

 お腹が空いているけれど、朝ごはんを食べに食堂に行っていると学校に間に合わなさそうな時間に起きてしまっているから、朝ごはんの代わりに指定鞄に常備しているゼリー飲料を吸いこむ。それでも頭がぼーっとしていたから、鞄からドーナツ状のパイナップルの飴を口に入れる。

 時計を確認するとイイ感じの時間になっていて、玄関へ向かう。そこにはローファーは一つしかなく、草下さんがここにいないことを再確認する。


 扉の前に立ち、はぁ、と一息。両手で頬をパンっと叩き、心のスイッチを入れる。


「よし、いってきまーす!」


 返事の返ってくるはずのない部屋に挨拶をして、扉を開いた。




「おっはよー!」

 教室に入りながら元気に挨拶をする。挨拶ができる人はなんでもできるらしい。怖い顔の知らないお兄さんが言ってた。

 ぽろぽろとおはよーというクラスメイトに笑顔で手を振って席に向かう。

教室に着いたのはHRの少し前で、自分の席に座るとぞろぞろと人が集まってきた。


「おはよう天野さん。寮、迷わなかった? 俺が送っていけたらよかったのにな~」

「おはよー上条くん、大丈夫だったよ~。一瞬迷いかけたから頼ろうとしたけど。あと、女子寮だから男子の君は入れないだろ~? ばれたらすぐに生指行きだよ~?」

「おはよ、星ちゃん。今日も前髪めっちゃ綺麗だよね、アイロンなに使ってるの?」

「ふつーのだよふつーの。ちょっとコツ掴んだらすぐだから、今度教えるね」


 群がる人との会話をうまくこなしていく。あらかじめ用意されていた返答のレパートリーの中から正しい物を選び取るゲームのようで、会話は楽しかった。昔は。


 チャイムが鳴り、いつの間にか入ってきていた担任の声を聞いて、机からの視界が少しづつ開ける。見渡すと左前、一番前の一番左の席から、ただならぬオーラを放つ女子が一人。

 なんで今日いるんだろ。相変わらず機嫌わるーい、顔だけ見りゃ美人なんだけどなぁ。

 周りからひそひそと聞こえる声から類推するに、きっとあれは草下さんだろう。クラスメイトだし、一応昨日部屋で会ったし。確かに機嫌が悪そうだし、実際昨日は悪かった。

長い黒髪を下ろしているせいで、表情は見えない。それが一層、機嫌が悪そうなのを助長する。

 声に出さずに心の中で、はぁ、とため息をつく。

昨日の私は面倒なことを今日の私に押し付けてきたものだ。日が変われば機嫌が良くなるだろうなんて楽観的に考えた昨日の私をつねってやりたい。

 

 ……だけど、それでいい。


 授業中ずっと、今日の放課後に寮へ帰るのが待ちきれなかった。

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