トウゲンキョウの人喰い桜(下)

  *  *  *  *  *  


 ──"人喰い桜の伝説"。


 最初はいたずらに人を脅かすだけのくだらない噂話だと思っていた。ありふれた都市伝説や迷信と同じ類なのだと。だが……"人喰い桜"は実在したのだ。渋る町の人たちを何とか説得して共に件の桜の木の下に戻ってきた頃には、既にミツキの姿は消え果てていた。月下に桜が咲き乱れている、ただそれだけである……

 すぐに手分けして辺りを捜索したが、一向にミツキが見つかる様子はない。旅館に帰って来たという連絡もなかった。僕たちの身に何かが起こるでもなく、桜はまるで僕らを嘲笑うかのように、月光をその身に浴びて美しく花びらを揺らめかせていた。

 結局夜明けを迎えてもミツキの姿は見つからず、僕たちは薄靄うすもやの中、町へ戻る他なかった。


 一本の物言わぬ桜を残して……



 それから一晩が経ち、一週間が経ち、一月が経ち、それでもミツキは帰ってこなかった。捜索届けも出されたが、何ら有益な情報は得られなかった。

 サークルは解散した。立て続けに二人もメンバーを悲痛な形で失ってしまったのだ。次第に僕たちは疎遠になり……そして一年の月日が経った。





 ──春。桜の季節である。


 ……僕はまた、あの桜の木の下を訪れていた。敢えて満月の夜を選んだのは、彼を残して逃げた自分の罪悪感からかもしれない。手には彼への手向けの花束を携えて、たった一人満月の夜道を歩いている。

 ああ、あの日と同じだ。今僕の頭上に輝いているあの満月もきっと、あの日と同じように僕たちとあの桜の木を照らしているだろう……そう、あの日と同じように。


 満開の桜は、今宵もまた妖しく輝いている。


 そして、ああ、そこには……





 





 老婆である。老婆でも女には違いない……桜の木の下に腰の曲がった白髪の老婆が一人立っていて、「おいで、おいで……」とこちらに向かって手招きしていた。僕は注意深くその場で立ち止まると、その老婆に向かって訊ねる。


「あなたは一体誰ですか?」

「……わたしゃ怪しい者じゃないよ。あんた、『あの男』の友人なんだって? だからわたしも、わざわざこっちくんだりまでやって来てやったのさ。……あんた、この桜の話が聞きたいんだろう?」


 老婆はそう言うと桜の木の幹を撫でるようにさする。皺だらけのその手付きには深い思い入れが感じられた。まるでその桜とは長い付き合いがあると言わんばかりに……花弁がひらひらと舞い、月明かりは仄かな桜色に染まってゆく。

 

 そして……老婆は訥々と語り始めた。

 なぜこの桜が"人喰い桜"と呼ばれているのか、その理由を。






 ──かつて、この場所には『桃源郷』があった。



 ……今でこそ開発されて見る影もないが、昔はこの辺り一面深い山奥であった。人知れず咲き誇る色取り取りの花々はまさに幻想的で、人里から離れた奥地にひっそりと佇むその美しさ儚さは、見る者が思わず浮世のしがらみを忘れてしまうほどだったという。

 そして昔あるところに、その桃源郷に魅入られた二人の男女が在った。身分違いの恋をした若い男女で、彼らは唯一月が照らす満月の日にだけ、二人の秘密の桃源郷で逢瀬を繰り返していた。


 中でも彼らが気に入っていたのは"桜の木"だった。この桜の木の幹に腰を預けながら、桜の花弁が舞う中、二人で月を見上げる……そのひと時の間だけ、現実を忘れて二人だけの幸せに浸ることができたのである。



 ──だがある日、その『ささやかな幸せ』も終わりを迎える。



 ……とうとう二人は心中を決意した。報われない恋の続きを、来世で遂げようとしたのだ。二人が心中場所に選んだのは、果たして桃源郷の桜の木の下であった。

 人生最期の時を桜の木の下で過ごした二人は、息を合わせ、とうとう心中を実行に移した……女は自らの手で命を手放す。だが……男の方は死にきれなかった。庄屋の御曹司である彼は、どうしても死ぬ覚悟ができなかったのである……「ごめんよう、ごめんよう」そう女に謝罪の言葉を繰り返しながら、男は死にゆく女を見捨て、命からがら桃源郷から逃げ去った。

 こうして桃源郷の存在は周りの知るところとなった。再び男が桃源郷を訪ねると、女の死体は消えていたという……



 ──それから長い月日が経ち……高度成長の時代、山は開かれ、桃源郷は姿を消した。だが桜の木だけは、新しく作られた町の隅にひっそりと残っていたのである。そして満月の夜の桜の下に、稀に一人心中した若い女の霊が現れるという……



「……それを見るのは決まって若い男じゃ。"桃源郷"を見た、と言う者もいるのう」



 いつの間にか、婆の姿が若い女に変わっていた。ああ……一目目にしただけでヒヤリと怖気が走った。恐ろしいほどに白い肌をした、見目麗しい美女である。だが、彼女がこの世の者でないことは明白だった。

 ……血だ。赤黒い血。身に着けた白装束は赤黒い血で染まっている。そうか、女は心中相手を探して…………。



 花。花。花。桜だけではない。辺り一面花が咲き乱れている。


 ──ここは桃源郷。恋破れ心中し損なった彼女が住む、安住の地……




呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪



「クっ、ガはっ……!」


 首筋が締め付けられる。苦しい、苦しい、苦しい! まるで縄で首を絞められているみたいだ! 僕は咄嗟に首元を触るが、縄らしきものが指に触れることはなかった。まずい、このままだと絞め殺される……!


「そうかい、苦しいかい。わたしゃ、もっと苦しかった……」


 そう言って、女は僕のことを見下ろしてくる。僕はあの時のミツキのように地面にうずくまっていた。ああ、僕はこのまま死ぬのか……? 苦しいくるしいクルシイ。今頃僕の首筋には、あの"紅い蛇"が巻き付いているのだろうか……目の前にいるのは"呪い"そのもの、怨念が形となった存在だ。理不尽から生まれ、理不尽に呪い殺す。それが彼女なりの"復讐"なのだろう。

 こんな相手に、一体僕が何をできるというのだろうか。朦朧とする意識の中で、僕は必死に考えていた。だが……コイツはミツキのことを『あの男』と呼んでいた。

 

 ──そして僕は、ありったけの力を振り絞りこう叫ぶ。


「ミ……ミツキは、っ……、なんだろう!? っ……お前が、心中し損なった男の……!」


 僕の一言に、白装束の女は大きく目を見開いた。それに心なしか首筋を締め付ける力が弱まった気がする。、か。どうやら今すぐに桜の園で臨終するなんてことにはならなくて済んだらしい。今の所は、だが……。


「ハァ、ハァ……図星みたいだな……」

「……それが、どうした」


 舞い散る桜の花弁の向こうに女の顔が見える。その"見覚えのある顔"に僕は安堵していた。ああ、皮肉なものだ……そして思わず笑みをこぼす。


「ハハハ……」

「貴様、何が可笑しい」

「いや……ハハハ、人って生まれ変わっても、『女の趣味』は変らないんだなって思って……」


 そんなことを言いながら、僕は死の恐怖よりも先に、言いようのない寂寥感を感じていた。


 …………。


 僕は今、ヤツに生殺与奪の権を握られている。ちょっとした気まぐれで生かされているに過ぎないのだ。ひょっとしたら次の瞬間、扼殺させられているかもしれない。だが……だからと言って、僕の『意思』までを握られている訳じゃない。そして僕はひょっとしたら自分の最期の一言になるかもしれないその言葉を、必死に口から紡ぎ出す。


「ミツキは……僕の、友達だった。本当に、良いヤツで……たまにどうしようもない大嘘付きで……それでも……僕にとっては、大切な友達だった」


 僕は地面に伏せながら、女の眼を必死に睨みつける。それは僕なりの最後の抵抗だった。女は無言で僕のことを見下ろしている……


 ──そして僕は、ゆっくりと意識を手放すのだった……



  *  *  *  *  *  





「あれから十年、か……」



 ──そして僕は呟くと、手に持った花束を静かに木の幹に添える。



 ……今でもこの桜は、町はずれにひっそりと咲いている。あれから"人喰い桜"の噂はサッパリと消えてしまった。そして僕は──毎年この時期になると、決まってあの桜の下に花束を手向けるのだ。

 あの日あったことは今も僕の胸の内にしまってある。あの日……目が覚めると太陽が昇っていて、傍らには僕が持っていた花束が置いてあった。"桃源郷"は既になく、一本の桜の木だけが僕のことを静かに見下ろしている……





 だが間違いなく、ここに"桃源郷"はあったのだ。"人喰い桜"も……





 ──この花束は、あの二人に捧げる"ささやかな桃源郷"だ。二人だけの……




 了

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