トウゲンキョウの人喰い桜

桜川ろに

トウゲンキョウの人喰い桜(上)

 古くから一部の文化圏において、黒猫は不幸の象徴だと考えられてきた。闇に溶ける漆黒の身体と闇の中で輝く金色の瞳は、永らく魔女を連想させるものだとして死や悪運と結び付けられてきたのだ。

 では、もし黒猫が不幸の象徴なのだとして。

 今僕らの頭上に輝いているあの満月──黒猫の瞳のように妖しく輝くあの満月は、果たして僕らに何を暗示しているのだろうか?


 …………。


 はじまりは大学のサークル仲間との旅行先で聞いた怪談話だった。


 ──その名も、"人喰い桜の伝説"という。


 教えてくれた仲居さんの話によると、この辺りには一本、大層立派な桜の木が生えていて、満月の夜にだけは絶対にその桜の木の下に行ってはならないのだそうだ。


「確か今夜って満月だよな? 面白そうじゃん、行こうぜ今夜。肝試しだ。……にしても"桜"かー。サクラ、元気にしてるかな」

 

 そう言い出したのはサークル仲間の一人のミツキだった。

 彼のその言葉を耳にした時、僕は「正気か?」と耳を疑わざるを得なかった。なぜなら「サクラ」……その名前はこのサークル内で半ば禁句となっていたからだ。それも、他でもないミツキ本人が原因で。

 今回の旅行、本来サークル仲間全員で行く予定だったのにも関わらず、一人欠員の七人の旅行となっていた。欠けているその一人……それがサクラだった。


 突然サークル仲間にも黙って大学に来なくなったサクラ。当時付き合っていたミツキに話を聞いても、「別に何も」と素知らぬ顔で返してくる。だがしかし、付き合いの長い僕は彼の『癖』をよく知っていた。

 一見ミツキは顔が良くて人懐っこく表面上は誠実に見える。だがしかし……実際はその場その場で都合のいい嘘をついて、後になって平気で知らんぷりをするような『どうしようもない一面』も持ち合わせていたのだ。その癖外面は良いせいで、周りは皆ミツキの言葉を信じて彼の味方をする。その実例を僕は何度もこの目で見てきた。

 

 …………。


 話を戻そう。結局それから、元々肝試しに乗り気じゃなかった女性陣たちを除いた四人の男が満月の夜に桜の木の下へ向かうことになった。

 時刻は草木も眠る丑三つ時。満月の光が届かない木陰には、まるで真っ黒の墨汁で塗りつぶしたかような闇が広がっていた……


「……なンだ、何もないじゃあないか」


 僕たちの一人が呟く。桜は確かにそこに在った。だが肝心の"人喰い桜"とやらはどこにも見当たらなかったのだ。

 闇夜の中に満月の光に照らされて妖しくそそり立つ、大木の桜……だがそれでも、桜は桜だ。生き血を啜る訳でも、ましてや人を喰う訳でもない。


 ──ただの立派な大桜。少なくとも、僕の目にはそう映った。


「桜の木の下でも掘ってみるか? もしかしたら人骨が埋まってるかもしれないぜ」


 その時の僕たちは、そんな軽口を言う余裕さえあった。

 





「……居た。女だ。女がこっちに手を振ってる……」





 ──僕は思わずゾッとしてしまった。ミツキが、虚ろな目で桜の木の方を見つめている。まるでその視線の先に何者かが立っているかのように……


「何を言ってるんだミツキ。あそこには何も居ない」

「でも、俺を呼んでるんだよ。あれは桜だ、桜の妖精だ……」

「そんな訳ないだろ、おい、しっかりしろよ! ……ミツキ!」


 しかしミツキはそんな僕たちの制止を振り切り、誘われるように桜の下へ。「おいおい、どうするよ……」僕たちは口々に呟く。だが僕たちにはどうすることもできなかった。辺り一面を取り囲む闇が僕たちにそうさせたのだ。一歩踏み出すことを躊躇してしまった……


 ──後から思えば、この時ミツキを止めておけば、と後悔する。だがそれも、後の祭りでしかなかった。


「…………」


 桜の木の下で、幸せそうに何かを呟くミツキ……

 

 ──だがしかし、それは長くは続かなかった。ミツキの様子が豹変する。


 「思い違いだ、俺は……」「やめろ、そんなつもりじゃ……」「ちがうちがうちがう!」突然そんな言葉を口走りながら、その場にうずくまり苦しみ始めたのだ!


「あッ、ガっ……!」

「どうした、何があったんだ!」

「首だ、首を見ろ!」


 それを見て僕はヒヤリと背筋が凍った。ミツキの首筋、そこにはまるで一匹の紅い蛇が巻き付いているかのように、うっすらと一筋の赤い線が浮かび上がっていたのだ! 


呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪


 ──線。赤い線。

 あれは痣……たぶん痣だ。だけど一体どういうことだ? あれじゃあまるで、みたいじゃないか……! そうこうしているうちに、ミツキの首の痣はどんどん濃くなっていく!


呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪


 それは"呪い"だ。周りを巻き込むことも厭わない、純粋な憎悪から来る見境のない"呪い"……この場に留まれば、助け出すどころか僕たちまで巻き込まれてしまう……! その末路は絶対に想像したくない。


 ──僕たちは走った。足が悲鳴をあげ続けても走った。転んでもすぐさま立ち上がって走り続けた……首筋に走るがあの赤い筋によるものでないことを祈りながら。僕たちにはそうする他なかったのだ。『助けを呼びに戻るだけ』……心の中ではそう言い訳をしながらも、その実僕たちは自分が生き残るために必死だった。


 ああ──



 走り、走り、また走り──気づけば桜は闇に溶け、とうに見えなくなっていた。


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