第4話 結婚&詩人としての旺盛な活動 👰
一九四九(昭和二十四)年、二十三歳になった詩人は、知人の紹介で山形県出身の医師・三浦安信(一九一八年生まれ、三十一歳)と見合い結婚をし、新居を夫の勤務先に近い埼玉県所沢町(現所沢市)に定めた。同年、詩誌『詩学』に投稿した「いさましい歌」が初掲載され、このとき初めて茨木のり子のペンネームを使っている。
やさしい夫の理解を得て詩人としての活動をさらに深め、一九五三(昭和二十七)年五月、 『詩学』仲間の川崎洋と同人誌『櫂』を創刊。当初はふたりだけだったが、第二号から谷川俊太郎、のちに吉野弘、舟岡遊治郎、水尾比呂志、さらに岸田衿子、中江俊夫、友竹辰、大岡信ら多数の詩人の参加を得たものの、四年後に解散する。
一方で、一九五五(昭和二十九)年に第一詩集『対話』(不知火社)を刊行するなど旺盛な創作活動を展開。三十二歳の秋には、保谷市東伏見(現西東京市)に新居を建築して移り住む。同時に『見えない配達夫』(飯塚書店)を刊行。収録の「わたしが一番きれいだったとき」は多くのファンを得て複数の国語教科書に掲載された。
一九六〇(昭和三十五)年六月十五日「現代詩の会」として安保阻止デモに参加(後述)。翌春、夫・安信がとつぜんのくも膜下出血で入院し、幸福だった結婚生活に翳がさし始めた最初の出来事となる。翌年、大先輩に当たる金子光晴と年齢差を超えた親交を結び始める。一九六三年、父・洪が没し、弟・英一が宮崎医院を継いだ。
女のひとが花の名前を沢山知っているのなんか
とてもいいものだよ
父の古い言葉がゆっくりよぎる
いい男だったわ お父さん
娘が捧げる一輪の花 (「花の名」)
*
詩人が『櫂』の復刊や相次ぐ詩集の刊行で忙しくしていた一九七五(昭和五十)年五月二十二日、北里研究所附属病院の医師だった夫・安信が肝臓がんのため没する(享年五十六)。相思相愛の詩人にとって四十八歳の早すぎる永訣だった。その年の正月に発表した『自分の感受性くらい』(花神社)の刊行は二年後の三月になった。
ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて
気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか
苛立つのを
近親のせいにするな
なにもかも下手だったのはわたくし
初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった
駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄
自分の感受性ぐらい
自分で守れ
ばかものよ (「自分の感受性くらい」)
最愛の夫との辛い永訣の翌月には、人気についてまわる宿命ともいえる毀誉褒貶にさらされつづけた(文法云々など詩芸術にとって枝葉末節の批評もあったらしい)詩人のすぐれた理解者であった金子光晴も他界し、しばらくは呆然自失だった後半生の軸足を、やがて韓国語の習得を足がかりにした韓国現代詩の紹介へと移していく。
その努力が実って、一九九一(平成三)年に編著『韓国現代詩選』で読売文学賞(研究・翻訳部門)を受賞。八年後には詩集『倚りかからず』(筑摩書房)の刊行で再び脚光を浴びるが、二〇〇六(平成十八)年二月十七日、夫と同じくも膜下出血で没した(享年七十九)。浄禅寺(山形県鶴岡市加茂)の夫・安信の横に埋葬された。
もはや
できあいの思想には倚りかかりたくない
もはや
できあいの宗教には倚りかかりたくない
もはや
できあいの学問には倚りかかりたくない
もはや
いかなる権威にも倚りかかりたくない
ながく生きて
心底学んだのはそれぐらい
じぶんの耳目
じぶんの二本足のみで立っていて
なに不都合のことやある
倚りかかるとすれば
それは
椅子の背もたれだけ (「倚りかからず」)
※拙作では著作権に配慮して詩作品の引用は一部に留めていますが、「自分の感受性くらい」「倚りかからず」の二作品については詩人の代表作であり、多数の教科書に紹介されるなど人口に膾炙していることを鑑み、全文を引用させていただきました。
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