第2章 戦争

第5話 六十年安保反対デモに参加した詩人 🏦



 その夜、地上に絶望し天を目ざす途中の夜鷹がふと振り返ったとしたら、日本列島がゆるやかな曲線を見せるあたりの一画が異様に明るみ、巨大な台風の目が渦になって一個の堅牢な建造物に押し寄せる凄まじい光景を目撃しただろう。岸内閣の安保反対を掲げて国会議事堂を囲むデモ隊のひとりに、結婚十年目三十四歳の詩人もいた。


 これといった思想があったわけではなかったが、心ある国民の大方がそうだったように、とにかくじっとしていられなかった。「現代詩の会」の一員として無党派の市民団体「声なき声の会」に連なって現地へ向かうと、「戦死した学徒兵たちの末弟ぐらい」(「怖るべき六月」)の年齢に当たる全学連の若者たちを、初めて間近にする。


(うわさに聞く全学連ですから、なんといいますか一種の憧れといいますか、のちのアイドルに寄せるファンの気持ちに近いものがあったような気がします。カリスマリーダーの唐牛健太郎さんはすでに捕らえられて獄舎にあったようですが、それでも挫けない学生らの真摯な気魄と真心に打たれ、行動せずにいられなかったのですよね)


 武装した機動隊の直前を通るときは堅固なスクラムを組まねばならなかったので、夫以外の異性の体温を初めて知った自分の大胆さに驚いたりもした。昂揚の一方で「民衆の選んだ政府を民衆が罵倒する」その矛盾を見据える詩人の目も忘れず、西田佐知子の歌う『アカシアの雨がやむとき』のセンチメンタルも冷徹に見据えていた。



      *



 一九六〇(昭和三十五)年六月十五日、東大生・樺美智子さんに象徴される犠牲者を出した闘争のシュプレヒコールに囲まれる官邸に籠っていた岸信介首相は、時計の針が進み自動的に日米安全保障条約が改定される瞬間を待っていた。実際そのとき、多くの国民の憎悪をよそにのちの“昭和の妖怪”は会心の笑みを浮かべたといわれる。


 太平洋戦争の開戦時に東條英機内閣の商工大臣であり、侵略の象徴である満洲国建国にも多大な力を発揮した。敗戦後、A級戦犯として巣鴨拘置所に収監されるもなぜか処刑を免れたばかりか公職追放期間を乗りきるとまさかの政界復帰を果し、あろうことか総理大臣にまでなって、ふたたび、この国をミスリードしようとしている。


(無力な国民にあれほどのことをしておきながらゾンビのようによみがえるなんて、いったい全体どういうことなの? それを平気で許すのだとしたら、それこそこの国はどうかしているでしょう。そのうえ国民の反対をおしきって不平等このうえない日米安全保障条約の更新に署名捺印だなんて、そんな恐ろしいことがまかり通る……)


 不条理への怒りの矛先は巡りめぐって国民に返って来る、この滑稽な事実を承知でデモに行かずにいられなかった詩人の耳に、のち「進歩的文化人づら」「左派詩人」などの批判が聞こえて来たが、詩人は「進歩的文化人づらとはどういうのだろう? 馬づらみたいなのかしら?」(「時代に対する詩人の態度」)とユーモアで交わした。


(だって卑怯じゃない? 自分はなにも行動せず安全な傍観者の立ち位置を確保しておきながら、あとになってあれこれ言い立てるのは男の風上にも置けないでしょう。その点、わが夫・安信はさすがの貫禄だったわね。やんちゃな女房を掌でよしよしと宥め「思うようにやって来なさい」と送り出してくれたんだから。上等な男よね~)




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