第3章 夫恋
第9話 上等な男性だった夫・安信さん 📚
二〇〇六(平成十八)年二月十七日、茨木のり子は、くも膜下出血で没する。翌年二月の一周忌に合わせ、三十年前に永訣した夫・安信へのあふれる想いの丈を綴った約四十編を収める詩集『歳月』(花神社)が刊行された。「あるいは評価が変わるかもしれない」と呟いたという生前の懸念はいい方に傾き、熱心なファンを急増させる。
この項では、三浦のり子という女性がどれほど三浦安信という男性を愛し抜いたかを綿密にご紹介するつもりでいたが、未見の『歳月』を味読するうちに、拙いペンで補足するには当たらない、この詩集全編が尊い恋文にほかならないことに思い至ったので、印象的な作品の全編or一部の引用により直截な愛の詩を再現させていただく。
*
セクスには/死の匂いがある 新婚の夜のけだるさのなか/わたしは思わず呟いた どちらが先に逝くのかしら/わたしとあなたと そんなことは考えないでおこう/医師らしくもなかったあなたの答 なるべく考えないで二十五年/銀婚の日も過ぎて 遂に来てしまった その時が/生木を裂くように (「その時」)
ふわりとした重み/からだのあちらこちらに/刻されるあなたのしるし/ゆっくりと/新婚の日々よりも焦らずに/おだやかに/執拗に/わたくしの全身を浸してくる/この世ならぬ充足感/のびのびとからだをひらいて/受け入れて/自分の声にふと目覚める 隣のベッドはからっぽなのに/あなたの気配はあまねく満ちて/音楽のようなものさえ鳴りいだす/余韻/夢ともうつつともしれず/からだに残ったものは/哀しいまでの清らかさ やおら身を起し/数えれば 四十九日が明日という夜/あなたらしい挨拶でした/千万の思いをこめて/無言で/どうして受けとめずにいられましょう/愛されていることを/これが別れなのか/始まりなのかも/わからずに
(「夢」)
日に日を重ねてゆけば/薄れてゆくのではないかしら/それを恐れた/あなたのからだの記憶/好きだった頸すじの匂い/やわらかだった髪の毛/皮脂なめらかな頬/水泳で鍛えた厚い胸郭/兀字型のおへそ/ひんぴんとこぶらがえりを起したふくらはぎ/爪のびれば肉に喰いこむ癖のあった足の親指/ああ それから/もっともっとひそやかな細部/どうしたことでしょう/それら日に夜に新たに/いつでも取りだせるほど鮮やかに/形を成してくる/あなたの部分 (「部分」)
朝な朝な/渋谷駅を通って/田町行きのバスに乗る/北里研究所附属病院/それがあなたの仕事場だった/ほぼ 六千五百日ほど/日に二度づつ/ほぼ 一万三千回ほど/渋谷駅の通路を踏みしめて 多くのひとに/踏みしめられて/踏みしめられて/どの階段もどの通路も/ほんの少し たわんでいるようで/このなかに/あなたの足跡もあるのだ/目には見えないその足跡を/感じながら/なつかしみながら/この駅を通るとき 峯々のはざまから/滲み出てくる霧のように/わが胸の
鬱病の治療には/最近/モーツアルトをきかせる方法もある/と精神科の医師が語った 一日患者の訴えに耳を澄まし/それはいかにしんどいことであったか/疲れて帰宅したあなたは/飢渇を癒すかのように/モーツアルトの流れに身を浸した/だったらあれは/無意識の自分自身への治療だったのでしょうか/どこかに暗さと寂寥とを隠していたひと/深く考える者にはさけられない/欝へのかたむき 〈伯父さんのコレクションは趣味がいい〉/甥がきて/若々しい手つきで/ひらりと一枚のレコードをかけると/部屋いっぱいに/天上の音楽は溢れ/久しぶりに聴く/モーツアルト (「モーツアルト」)
「これはたった一回しか言わないから良く聞けよ」/ある日 突然 改まって/大まじめであなたはわたしに/一つの賛辞を呈してくれた こちらは照れてへらへらし/「そういうことは囁くものよ」 とか言いながら/実はしっかり受けとめた/今にして思えば あの殺し文句はよく利いた 無口で/
ひとりの
〈逝ったあのひとが どうぞ安らかでありますように〉/とたん/ききとどけた! というように/いっせいの蝉しぐれ (「蝉しぐれ」)
獣めく夜もあった/にんげんもまた獣なのだと/しみじみわかる夜もあった
(「獣めく」)
おたがいに/なれるのは厭だな/親しさは/どんなに深くなってもいいけれど
(「なれる」)
清冽の流れに根をひたす/わたしは岸辺の一本の芹/わたしの貧しく小さな詩篇も/いつかは誰かの哀しみを少しは
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