第1章 詩人

第2話 こよなく愛された生い立ち 👧



 茨木のり子は一九二六(大正十五)年六月十二日、大阪の病院で生まれた。済生会大阪病院耳鼻咽喉科医長だった父・宮崎洪(長野県出身)、母・勝(山形県出身)の長女で、二年後に弟・英一が生まれている。五歳のとき父の転勤で京都に移る。翌年には愛知県幡豆郡西尾町に再び転居し、その翌年、西尾尋常高等小学校に入学する。


 一九三七(昭和六)年七月七日、関東軍が仕かけた蘆溝橋事件により日中戦争が勃発したとき、のり子は十一歳になっていた。入学以来の習慣により夏休みを母・勝の実家の山形・大瀧家で過ごしたが、同年暮れ、母は結核のため死去する。父と弟の三人暮らしで愛知県立西尾高等女学校に入学した二年後、継母・のぶ子を迎えている。

 

 十五歳の暮れ、日本軍の一部の暴走による真珠湾攻撃で太平洋戦争が勃発。翌年、父・洪は無医村状態だった吉田町(西尾町に隣接)から請われて宮崎医院を開業する。その父の勧めで帝国女子医学・薬学・理学専門学校(現東邦大学薬学部)に進んだのり子が上京して寄宿舎に入ったのは、一九四三(昭和十七)年春のことだった。


(父は身内他人を問わず愛情深いひとでしたが、とりわけ早くに母を失くしたわたしたち姉弟をとても心配していたのです。夫が亡くなるとたちまち生活に困る生家の義姉や患者さんたちの苦労を間近に見ていたので、女性もひとりで生きていかれる力を身につけるべきと考え、ひとりむすめのわたしに薬剤師の道を勧めてくれたのです)



      *



 幻の国の姫・俳人・作家・歌人……筆者がこれまでその生涯をたどらせていただいた先達女性たちの多くが複雑な家庭環境で過酷な幼少期を送っているが、この詩人の生い立ちは当時としては稀有と言っていいほど恵まれており、唯一の暗雲となった実母の早逝でさえ、やさしい継母の出現によりその傷が急速に修復されたかに見える。


 パパはいう お医者のパパはいう

 女の子は暴れちゃいけない

 からだの中に大事な部屋があるんだから

 静かにしておいで やさしくしておいで

      そんな部屋どこにあるの

      今夜探検してみよう            (「女の子のマーチ」)


 だが、筆者はふと考えてみたりする。怜悧な先見の明ゆえか、あるいは姉弟をこよない慈愛で育んでくれた継母への配慮のゆえか、詩人は多くの物書きのように自分の内面を残そうとはしなかったが、物事の受け留め方が極めて繊細な質の例に漏れず、心の底には深い寂寥を棲まわせていたのではないか。そんな気がしないでもない。



      *



 詩人の少女期は戦争一色だった。いち早く校服をモンペにあらためた西尾高等女学校で、詩人は分列行進訓練の中隊長を指名され「かしらア 右イ かしらア 左イ 分列に前へ進め! 左に向きをかえて 進め! 大隊長殿に敬礼! 直れ!」と気合の入った一喝で全校生四百人を自在に動かすことにひそかな昂揚を覚えたりもした。


 帝国女子医学・薬学・理学専門学校に進んだ一九四三(昭和十八)年六月五日、ブーゲンビル島を飛行中、米軍機に撃墜されて戦死した連合艦隊司令長官・山本五十六元帥の国葬に一年生全員で参列するが、そのころから詩人の内部に個人的な悩みが発生する。いまさらだが、どうしよう、理系なのに化学が不得手……そのことだった。


 自分自身への絶望と時代の閉塞感から捨て鉢になり、空襲警報が鳴っても防空壕へ入らず、ここで死ぬならそれまでだと思ったりしながら迎えた一九四五(昭和二十)年八月十五日、よく聴き取れない玉音放送で敗戦を知る。翌日、大混乱の東海道線で生家へ向かう途中、熱海の手前の根府川駅で受けた強い印象をのちに作品に詠んだ。


 根府川

 東海道の小駅

 赤いカンナの咲いている駅


 たっぷり栄養のある

 大きな花の向うに

 いつもまっさおな海がひろがっていた


 中尉との恋の話をきかされながら

 友と二人ここを通ったことがあった            (「根府川の海」) 




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