第一章 幽霊屋敷の事情⑤

 カビ臭い空気を吸い込みながら、古びたコンクリートの階段を上がっていく。前を歩く神代が、ふう、とわずかに疲労感の混じったため息をついた。


 三階の錆びついた鉄製の扉には、「さざなみ不動産」と印字されたプレートが掲げられている。その文字は薄れて消えかかっており、プラスチック製のプレート自体もボロボロだ。そろそろ付け替えたらどうかと思うが、我が社の社員以外が訪れることなどないから、特に不便もないのだろう。


 扉を開けて事務所へ入ると、誰の姿も見当たらなかった。ただ、ソファーの前に置かれたローテーブルの上には、開きっぱなしの雑誌が置かれており、湯飲みに入った緑茶からは湯気が立っている。ホコリまみれの24インチのテレビもつけっぱなしになっていた。


 神代は長身を折り曲げて、テーブルの上の雑誌を覗き込む。いかがわしいオカルト雑誌の見開きいっぱいに、心霊スポットの訪問体験記が写真付きで掲載されていた。


「社長が来てるみたいだね。入り口の鍵も開いてたし」


 私は布地の毛羽立った二人掛けのソファに、どかっと腰を下ろす。神代は窓際に立ったまま、腰を回して体のストレッチをしはじめた。

 窓の外に目をやると、既に日が落ちかけており、空は赤く染まりはじめていた。帰路につくサラリーマンが駅前のロータリーを足早に行き交っている。部活帰りと思われる数人の高校生の集団が、気だるそうに並んで歩いているのも見えた。


 ここは都内郊外、日の当たらない路地裏に建つ、空き室だらけのテナントビルの一室。

 さざなみ不動産は二か所の営業所と、ここ本社の三つの拠点を持っている。わが社は社長が総務回りを全て担当し、他の社員はみな営業担当なので、この本社はほとんど社長のプライベートルームと化していた。社員にとっては、時おりこうして立ち寄る中継基地でしかない。


 給湯室の扉が開いて、ポロシャツにスウェット姿の小波こなみ社長が歩いてきた。ぽてっとした丸顔に、銀縁の丸眼鏡が相変わらず似合っている。


「おお、おお、ご帰還なすった」

 白髪の交じったあごひげをジョリジョリと触っている。

「警官コンビじゃないか。お疲れさーん」


「懐かしいですね、その呼び方」

 神代が腕のストレッチをしながら、嬉しそうに振り返った。

「社長、最近飽きてたのに」


 警官コンビというのは、神代と私がタッグを組み始めた当初から呼ばれているあだ名だ。「良い警官と悪い警官」という、取調べや交渉で用いられるテクニックの通称からとっているらしい。


 たしかに私は地縛霊との交渉戦術として、あえて悪い警官を演じている面があるが、神代は違うと思う。神代は根っからのお人好しであり、普段の交渉態度からも策略的な意図はあまり感じられない。


「今日は、間宮まみやさんはいらっしゃらないんですか?」

「うん。朝から物件の調査をお願いしててね」

 間宮さんというのは、社長専属の秘書の名前だ。社長の学生時代からの親友で、さざなみ不動産を設立した当初から、社長の業務を陰ながら支えてくれていると聞く。


「例の幽霊屋敷はどうだった?」

 社長は私の隣に腰を下ろし、湯気の上っている緑茶を一口啜った。

「カノンちゃんとやら、噂以上のパワーやったわ。力尽くで出て行ってもらうんなら、私たちだけじゃ不安やな」


「ウソでしょ、そんなに強いの? 君たち二人でも難しいなんて」

「増員しないとキツイと思うで。有能な除霊師が、もう二人くらいは必要やろな」

「結局、どういう能力だったの? やっぱり歌が関係してた?」


「そうみたいやな。歌声を耳から侵入させて、直接、脳に霊気を運ぶねん。これまでの除霊師は意識を失ったり、自律神経が狂う程度で済んだみたいやけど、使いようによっては、もっとえげつない攻撃もできるんちゃうか?」


「それって、耳栓とかしててもダメなのかな?」

「たぶん意味ないで。とんでもない声量やったし、あの歌は、ほんのちょっとの隙間からでも耳に侵入しようとしてくる。しかも、聴こえてる音が小さくても効果は絶大やった」


「とはいえ、さすがに警官コンビなら、万が一ドンパチになっても勝てるでしょう? 神代くんには攻撃が効かないし。あおいさんだって、能力で音を受け流せるじゃない」


「私の霊信は、そこまで万能ちゃうで。たしかに音の通り道を作って、ムリヤリ歌を聞かへんようにはできたけど、それが精一杯や。攻撃に転じる余裕なんてない。神代はそもそも攻撃手段をもってへんしな」


「えー、困っちゃうなあ」

社長は笑顔であご髭をさすっている。


「いま、うちの社員は皆パンパンなんだよね。オーナーが希望してる予算的にも、除霊師を外注するのは難しいし……何とかしてバトル展開を避けられない? どうにかして、円満に出ていってもらおうよ」


 社長は首を傾げてはいるが、その表情は嬉しそうだ。社長は普段から、社員が難しい案件に悪戦苦闘している様子を見て、楽しんでいるような節がある。


「神代くんの目から見て、どう? 立退きに応じてくれる見込みはありそう?」

「今のところ、感触は良くないですね」

神代はストレッチを中断して、こちらに向き直った。

「カノンさんは明確に立退きを拒んでいます。生まれ育ったあの家を離れたくないとのことです。僕たちも、話し合いを始める前に一度、予告もなく攻撃を受けました」


「でも、相手は高校生のお嬢ちゃんでしょう? どうしてそんなに凶暴なんだろう。もともと攻撃的な性格だったのかなあ?」

「いえ、そうではないと思います。以前に除霊師が攻撃をしかけたことで、警戒心が増しているんじゃないかと」


 昨年、我々の前に入っていた不動産業者が、あの館に除霊師を一人差し向けている。実力派で知られ、経験も豊富な除霊師だったが、あっけなくカノンに撃退されてしまった。彼はあの歌声を聞いて意識を失い、翌朝、館の近くのゴミ捨て場で寝ているところを近隣住民に発見されたらしい。


「早くから友好的解決を図っていれば、ここまで態度は硬化しなかったかもしれません」

「初めからウチに頼んでくれてればねえ……」社長はため息をついて眉根を下げた。


 さざなみ不動産で取り扱う物件のほとんどは、地縛霊が棲みついてしまったいわゆる事故物件だ。オーナーの依頼に基づいて、地縛霊を立ち退かせてから、売却などを仲介する。私や神代のようなお抱えの除霊師が全部で六人いるほか、社長の広い人脈を使って、フリーの除霊師に外注をするケースもある。


 除霊師を秘密裏に雇用する不動産業者が増えてきた中で、さざなみ不動産の強みは、地縛霊との和解的解決というオプションだ。

 一方的に除霊を行うのではなく、地縛霊側の希望をしっかりと聞き、お互いの意向をすり合わせて円満に立ち退いてもらう。私は神代が三年前に入社したときから、彼とコンビを組んで、和解による解決専門の除霊師として活動している。


「こりゃ、下手すれば数か月かかる案件だねえ。今後もこまめに報告を頼むよ」

「社長、なんだか嬉しそうですね」

 神代に指摘され、社長はニヤリと口角を吊り上げた。


「だってこういう案件、好きなんだもん。事故物件が好きで不動産業界に入ったんだからさあ」

「ほんまに変わった動機やな……」

 私は机の上に置かれたオカルト雑誌に目をやる。


「そんなにオカルトが好きなら、オカルト研究家にでもなればよかったやん。雑誌のライターでもユーチューバーでも、その趣味を活かしたいなら、他に向いてる仕事あったんちゃう?」


「いやいや、心霊に一番携われるのは不動産業者だよ。人間に悪さをする霊のほとんどが、自分の居場所にこだわる地縛霊でしょう? そして、その地縛霊のほとんどが、人間の住居に棲みつくんだから」


 霊とは、人間がもともと持っている霊的な要素……感情、感覚、感性と呼ばれるような部分だけが分離して、目に見える形で人間界に取り残されてしまった存在だ。

 その多くは、人間だった頃の感覚や常識を強く残しているため、生前と同じく、できる限り人間の住宅の中で生活しようとする。彼らは、家の設備や家具はおろか、床や壁にすら触ることができないので、実際は家に住んでいるというより、家の中の空間でふわふわ浮いているだけなのだが。


「しかし、他所よそからやって来て棲みついたパターンならともかく、元住人でそれだけ強力な地縛霊ってのも珍しいね」

「カノンさんの亡くなった経緯を考えれば、納得がいきます」


 神代は鞄から紙製のファイルを取り出し、立ったままページをめくりはじめた。あの館に関する資料一式を綴じているものだ。私もちょうど確認したかったところなので、背伸びして隣からファイルを覗き込む。神代は私にも読めるように、ファイルの位置を少し下げてくれた。


 カノンの父親である小清水誠二は、とある貿易会社の経営者だったそうだが、カノンが小学生の頃にがんで死亡している。あの館は、今から三十年ほど前、その会社の創業者であるカノンの祖父が、誠二の生まれた頃に建てたものらしい。


 誠二が死亡してからは、その会社の経営は小清水家の手を離れた。誠二が遺したあの館は妻の美羽が相続し、カノンは美羽と二人で、ささやかな暮らしを営むようになった。


 平和に暮らしていた母娘に悲劇が訪れたのは、五年前の五月。数名の強盗グループがあの家に押し入り、二人をナイフで殺害して逃走した。

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