第一章 幽霊屋敷の事情②

 私は自分の能力を使い、隣に立つ神代に向かって、彼にしか聞こえない方法で語りかける。


――ちょっとだけ呼吸音も聞こえる。おるで。

「うんうん。失礼のないようにしないとね」


 神代は微かに笑みを浮かべ、ネクタイを直し、襟を正した。

 廊下をまっすぐ行ったつきあたりにある、広い部屋へ続いていそうな扉。異様な気配はその奥から漏れ出ている。私と神代は互いに目配せをしながら、幅の広い廊下を並んで歩く。


 神代は扉の前で立ち止まると、扉を二回ノックした。応答がないことを確認してから、ゆっくりとそれを押し開く。

 扉の向こうは広々としたリビングだった。調度品は最低限しか残されておらず、木製のダイニングテーブルと椅子が四脚、ソファーとローテーブル、あとはテレビが置かれているのみ。


 壁の下の方には、こじんまりとした暖炉がぽっかりと口を開けていた。表の通りに面した窓があるようだが、今はクリーム色のカーテンで閉ざされている。右奥にスペースを贅沢に使ったキッチンも見えるが、物が何も出ておらず生活感はない。


――ソファーの裏や。

 私はまた神代に言葉を伝達する。ソファーの裏から気配がしている。おそらくあそこに、誰かが隠れている。


「どうもどうも、はじめまして」

 神代はソファーの方へ向かって、はきはきと言い放った。


「突然お邪魔しまして、失礼いたしました。私、さざなみ不動産の神代と申します」

 相手から返事はなく、こちらへ出てくる様子もない。


「そちらにいらっしゃるのは分かってますよ」神代は勿体ぶった口調で呼びかける。「よろしければお顔を見せて、一度、お話しさせていただけませんか?」


 神代の呼びかけに、ソファーの背もたれの裏から、ひょこっと頭が覗いた。少しずつ顔が見えてきて、整った面立ちの少女が現れる。


 年齢は高校生くらい、水色のワンピースに身を包んだ黒髪の少女だ。右頬の控えめなほくろが印象的に映る、可憐な美少女だった。

 中腰で胸から上だけをソファから覗かせ、やや身を引いて私たちを睨んでいる。その体はうっすら透けており、彼女の身体越しに部屋のクリーム色の壁がぼんやり見え

ていた。


「あなたたち、誰ですか」

 怯えている様子はなかった。こちらを警戒し、威嚇するような口調だ。

「この家から出て行ってください」


 神代は爽やかな笑みを浮かべたまま、彼女のいるソファーの方へ歩きはじめた。ジャケットの内ポケットをまさぐりながら、ゆっくり近づいていく。

 接近してくる神代を警戒し、少女は慌てた様子で立ち上がった。深く息を吸い込むと、顔を少し上向かせて口を大きく開く。


 次の瞬間、彼女の口からとんでもない音量の声が放たれた。鼓膜が破れる危険を感じ、私は咄嗟に指で耳の穴を塞ぐ。オペラか合唱か、どこかで耳にしたことのある外国語の楽曲だ。あたり一帯の空気を突き刺すような、ビブラートの利いた力強いソプラノボイスが館中に響きわたった。


 初めはその声量に驚いていたが、すぐに更なる異変に気がつく。彼女の歌声が鼓膜を揺らす度に、ずん、ずん、と内臓のあたりに重苦しい感覚が走った。やがて、右側の側頭部にも針で刺されたような痛みが走り、私は思わず呻き声を上げる。徐々に頭に靄がかかるように思考が鈍っていき、意識が遠のいていく。


 意識が朦朧とする中、私は目を閉じて聴覚を研ぎ澄ました。能力を使って、聴こえてくる音を一つ一つ拾っては、外へと逃がしていく。それでも多少は歌声が耳に入ってきたが、身体へのダメージはかなり軽減された。


 特定の音波を聴かせることで、相手の生理的機能を狂わせる能力のようだ。事前に聞いていた情報とも合致している。似たような力を持った霊には何度か出逢ったことがあるが、どれと比べても威力と即効性が桁外れだ。


 辺りの状況を確認する余裕が生まれ、私は神代の方に目をやる。彼は少女の目の前に立ち、彼女の歌声を至近距離で浴びながら、穏やかな微笑を浮かべていた。


「歌がお好きなんですね。声楽か何か、やられてたんですか?」


 顔色一つ変えずに尋ねてくる神代に、少女は困惑の表情を浮かべていた。声が震えはじめ、時おり途切れるようになる。


「ちゃんとやってる人って、発声から違いますよね。羨ましいなあ。僕なんかめちゃくちゃ音痴で、カラオケではいつもタンバリン要員ですよ」


 少女は数十秒のあいだ歌いつづけた後、憔悴した様子で歌をやめた。息を切らしている少女に向かって、神代は申し訳なさそうに眉を下げた。


「申し訳ありません。先に説明しておけばよかったですね……。あなたを疲れさせてしまいました」

 爽やかに謝罪する神代を、少女は怯えるような目つきでじっと見ている。


「僕には、霊の攻撃が全く効かないんです。そういう特殊な体質でして」

「体質……?」

「そうなんです。霊の中には凶暴なのもいまして、殴ったり蹴ったり、襲いかかってくることもあるんですが……僕はその影響を一切受けないんです」

「こいつは霊感が強すぎんねん」


 私は少し離れたところから補足説明をする。

「バカでかい霊感を持つ人間は、ごくまれに、霊の干渉を全く受けない体質で生まれることがある。お嬢ちゃんの歌もこいつには効かへんで」


 にこやかな笑みを浮かべる神代を、少女は目を丸くして見つめていた。

 驚くのも無理はない。彼女の歌唱の威力はすさまじいものがあった。私はたまたま能力との相性が良かったから、ダメージを最小限に抑えることができたが、普通の人間ならものの数秒で意識を失っていることだろう。神代が無傷でいることが異常なのだ。


 少女はふわりと空中に浮かび上がり、天井の近くで静止した。部屋の隅を陣取ると、また大きく息を吸い込んで、先ほどと同じ歌を歌いはじめる。

 私はまた意識を聴覚に集中させ、聴こえてくる音を外へ逃がしていく。先ほどよりも声のボリュームが大きいため、完全に音を逃がすことはできないが、意識を保てないほどではなかった。


 見ると神代は、相変わらず柔らかな笑みをたたえ、微動だにせず立っていた。


「もう諦めや!」私は耳を塞いだまま、彼女に向かって叫ぶ。

 少女は歌唱を続けながら、私を不審そうに一瞥した。その後、神代の方へ視線を移動させ、彼のあまりに穏やかな表情に驚く。


「こいつには何したって無駄やで! あんたとこいつとの間に、チリ一つ通さない、分厚い壁があるのを想像したらええわ! 何の攻撃も通らへん! あんたが消耗するだけや!」


 彼女は私の言葉をきっかけに、歌うのをやめた。歌が止んでから数秒経って、神代がおもむろに口を開いた。


「概ね、彼女が説明したとおりです。僕にはどんな攻撃も効かないんです。恐れ入りますが、この能力がある限り、実力行使で僕を追い払うことはできません」


 少女は眉間に皺を寄せて、神代の方を睨んでいた。神代は意に介さず、マイペースに進める。


「申し遅れましたが、神代紘一と申します。神の代理人と書いて、神代です」

 神代はそんな大それた自己紹介をしながら、再びスーツの内ポケットに手を差し込んだ。何かを取り出して、ソファーの前のローテーブルに丁寧に置く。私はすぐにそれを覗き込んだ。

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