第30話 不幸体質
「私、親いなくって……」
その言葉に、穏やかだった空気が一瞬について凍り付き、二人の間にかなり長い沈黙が流れた。
それを破るように、紬がおそるおそる口を開く。
「もしかして、聞いちゃいけないこと。聞いちゃったかな」
「あ、そういうんじゃなくって…!っていうか、知ってたかな、って思ってたんだけど」
「華月さんには伝えてあるの?」
「うん。もしかして…聞いてなかったのかな」
白川小春には両親がいない。
彼女の父である白川秋人と、母である白川実里は、10年前の2086年、突如死亡した。
穏やかな休日の夏のことだ。小春が留守番をしていたら、急に家に電話がかかってきて、両親が亡くなった、と。無慈悲なメッセージのみが伝えられたということを、小春はまだ覚えている。
まだ未成年である彼女への連絡先として、華月にも両親のことを聞かれたが、「いない」ということをもう既に伝えてある。
しかし、どうも紬はその事実を、知らなかったようなのだ。
「うん、それにしても。えっと……」
言葉が出てこないのか、紬はそのまま黙り込んでしまう。こんな時にどう声をかけていいのか、彼女には全くわからなかったのだ。
「あ、えっと…ほんと気にしないで!お父さんもお母さんも、亡くなったの昔の話だし。それに伝えてなかった私も悪いから」
「そう?それなら、いいけど…。今、なんて言おうとしたのかなって言うと。すごい、苦労してきたんだなって…思ったんだよね」
「そうかな…もう、なんかちょっとわかんないや」
不幸体質で毎日苦労ばかりしていた彼女には、もう「苦労のない生活」が想像できない。
16年も続いてしまえば、常にそれは「そういうもの」なのだ。
「小春って、不幸体質なんだって?」
「そうだよ。今朝電車が止まったのだって、扇風機が壊れたのだって、私は"そういうもの"でしかないんだなって、なんか。そう思うと諦めがつくから」
不器用に、出来るだけ笑顔でいるように務め、小春はそう答える。
しかし、予想外に、そこに返ってきた紬の表情は険しかった。
「電車が止まるとか、扇風機が壊れるとか。そういうのはいくらでも取り返せる。お出かけだってまた別の日にやればいいし、扇風機なんてまた買えばいい。お金がないなら、溜めればいい。でもね……」
紬はそのまま小春の目をしっかり見ながら、
「大切な人が亡くなったの、そういうので片づけちゃダメ。きっと、すごい寂しかったんだと思う。小春…なんかたまに外向いてる時あるからさ。あれ、今思えば。考え事してたんでしょ?」
「自分の気持ちに、蓋をしないでよ」
「ぅ……だって……」
最初は、紬に対して何か言い返そうかなとも、考えた。
でも、全く言葉が出なかった。
ここまでまっすぐに、自分の目を見て話してくれる人がいなかった。
皆、両親がいない子だからと、遠巻きに自分のことを気遣って、何も話してくれなかったのだ。
「小春とはまだ会ったばかりだからさ。あんまり偉そうなことは言えない。でも、どうしても小春が寂しさに蓋をしてるようにしか見えなくてさ。勿論、本当に寂しくないんだとしたら、それは私の余計なお世話だからさ、もしその時は私を怒って欲しい」
思わず、頬を熱いものを伝う。抑えていた感情がどっと蓋をしたように、流れ始める。
「私、今まで寂しかった……なんで、お父さんとお母さんがいないんだ、って……思ってたの……」
ベッドの毛布の上に、小さなシミが2つ、3つと出来始める。
「ずっと一人で寝てたの、嫌だった……。ご飯作ってくれる人、いないの、寂しかった……」
壊れかけた電灯で灯され、薄暗い部屋で食べる食事は、最早美味しいのかどうかもわからなかった。
本当は、自分にも普通の幸せが欲しかった。同世代の少年少女と同じように、母親が作った食事を食べ、学校に通って、青春を過ごしたかった。
「うぅ……うぅ……」
まだ涙を流し続ける小春を、紬はそっと抱き寄せた。
「いくらでも泣いていいからね。小春は、まだ本来なら守られるべき歳なんだから。悩みだって言っていい。どうせこの家には私しかいないから、来たい時には来てもいいよ」
「うぅ……紬、さぁん……」
抑えきれない感情が、未だに溢れ出す。自分は今まで、寂しいという感情に蓋をしていたのだと。不幸だからと、どこか諦めていたのかと。
自分の感情に、蓋をするな。それはもしかしたら、小春が今まで生きて来て、一番欲しい言葉だったのかもしれない。
やがて泣き疲れて、涙もすっかり出なくなったところで、紬の手からそっと離れて、小春は顔を伏せる。
「良かった。やっぱ、本当の気持ちは、隠しすぎちゃ良くないからさ。一哉とか、悠希も…悠希は、大丈夫だと思うけど。でも、ちゃんと伝えられたのは、小春が初めて」
「本当に…本当にありがとう、紬さん」
上手く声が出なかった。グズグズになりすぎて、何を自分で発していたのか、判別がつかなかった。
「どういたしまして。…そうだ。私は今から晩御飯作ってくるけど、何か食べたいものとかある?」
紬はそのまま席を立とうとする。それに対し、小春は紬の腕を、袖を掴むようにして掴んで制止した。
「えっと……その…紬さん」
紬が振り返ると、小春は右手で顔を隠した。
「どうしたの?」
「あんまり…私の顔…今は見ないで。すっごい、泣きすぎてぐずぐずになってると…思うから……」
我に返ると、急に恥ずかしくなってしまって、紬の顔が見られなくなってしまった。いくらなんでも、泣きすぎだ。そもそも、人の部屋で。
「気にしなくていいのに。そうだ。晩御飯…どうする?」
「それなんだけど、さ。紬さんの作りたいものだったら、私。今だったら何でも食べられそうな気がする」
「あっはは。可愛いこと言うなぁ。でも、あんまり凝ったものは作れないから、がっかりしないでね?」
「多分。紬さんと一緒に食べるものだったら…何でも美味しいと思う」
言った後に、振り返って恥ずかしくなってしまい、また顔が赤くなる。まるで火でも出ているかのように、顔の周りは凄まじい熱さが覆っていた。
「その、落ち着いたらでいいから」
「わかった……」
一体自分がこの後何を言い出すかわからなくて、そのまま小春はベッドに突っ伏したまま、何も言えず動けないでいた。
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