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午後五時半になった。子供達はまだ来ないようだ。そもそも、来る保証なんて何処にもない。
「酒、持ってくれば良かったな」
「だな」
裕也のつぶやきに啓介が同意した。
正直、二人とも相手が「帰るか?」と言うのを、内心待っていた。午後四時半頃までは確かにあったワクワクした気持ちも、今はこれっぽっちも残っていない。こんなところで静かにじっと待っているのは、退屈を通り越して苦行に思えた。一分一秒がまるで一時間のように感じる。
「俺、ちょっとしょんべん」
啓介が言って立ち上がった。
「じゃあ俺も」
一緒に立ち上がろうとする裕也を啓介が制した。
「いや、一緒に行って、その間に子供来たら最悪じゃん? せめて交代で行こうぜ」
「あー……、そうだな。ここまで待ったしな」
「うん。じゃあちょっと先に行ってくるな」
そう言って啓介は寝室を出た。
扉を出てすぐ、ふと右手に目をやってみた。三階へと続く階段がそこにはあった。なるほど、確かにほとんどの踏み板が破れている。吹き抜けは二階までだから、三階は二階以上に広い空間のはずだ。こんなお屋敷だから、ダンスホールでもあるのかも知れない。そんな事を考えながら、一階へと足を向けた。
階段を下りるのは、上りと比べて楽に感じた。
踊り場から一階を見渡す。誰もいない。耳を澄ましてみても声は聞こえない。
入り口の扉を、なるべく軋まぬようそっと開ける。薄く開けたところで外の様子をうかがうが、何の気配もなかった。ほっとしたような、がっかりしたような気分で啓介は屋敷の外へ出た。
ムッとした熱気が肌を撫でる。涼しさで言えば屋敷の中の方が快適だったが、空気は外の方がずっと美味い。深呼吸をしながら右手側へと歩いて行く。こちら側なら、塀の裂け目から入ってきた子供達に用を足しているところを見られる心配もないだろう。
角を曲がって数歩のところで立ち止まり、チャックを下ろし、用を足す。
実は大分前から我慢していたので、身も心も落ち着くようだった。
ガサッ……、ガサッ……。
──なよ。引っ張るなって──。
その時、かすかにだが、人の声が聞こえた。
チャックを半分閉めたところで手を止め、息を飲む。
──、タクミ、お前、ビビってんのかよ──。
蝉の声に混じって、確かに子供の声が聞こえる。一人ではない。二人か……、いや、少なくとも三人はいそうだ。
啓介はそっとチャックを閉めた。
(どうする?)
ここにこのままいたら、万が一子供達がこちら側へ回ってきた場合、確実に見つかってしまう。
裏手の方へ回って、そっと様子を見てみるか。それとも屋敷の中へ戻るか。
前者の場合、うっかり見つかってしまう可能性もある。
後者の場合はどうか。今ならまだバレずにそっと中に入る事は出来るかも知れない。しかし、もし子供が走って入り口まで来たら? 少なくとも二階に上がる時間的余裕はないだろう。なら一階に隠れるか? それが良いかも知れない。ああ、そうだ、裕也に子供が来たことを伝えないといけない。携帯端末は圏外だから、中に入らずに伝える方法はない。
──、大丈夫だって。ユリは俺の後ろに隠れてろよ──。
子供の声がさらに近づいて来た。かなり大きな声で話しているようだが、もういくらもせずにここへ辿り着くだろう。もう悩んでいるヒマはない。今ならまだ、あちらから入り口は見えないはずだ。啓介は足音を殺し、さっと入り口へと回ると、薄く開いたままにしておいた扉の隙間に体を滑り込ませた。
「裕也、子供が来たぞ」
外に聞こえない程度の大きさで二階に声をかける。聞こえただろうか。誰か来たらすぐにわかるよう、寝室の扉は少し開けておいたが、どうか。
啓介は二階へは上がらず、一階の客間の方へと隠れることにした。内側から扉を押さえれば、万が一こちらへ向かってきても、まさか蹴破ってまでは入って来ないだろう。
扉の裏に体を預け、呼吸を整える。啓介のいる場所から右手の方に廊下があり、三つの扉が並んでいるのが見えた。廊下の奥には窓があり、そこから入る外の光が、埃舞う廊下の中をぼんやりと照らしていた。啓介は足音を立てないよう気をつけながら走り、手前の適当な部屋へと潜り込んだ。慌てて閉めた扉に耳を当ててホールの様子を探る。
──ほんとだ、開いてる。
子供の声と共に、ギギギ、と扉の軋む音が聞こえる。
──ガタッ。
二階から物音が聞こえた。子供が入ってきた事に裕也が気づいたのだろう。
──今何か音がしなかったか?
──気のせいだろ。やっぱタクミ、ビビってんだな。
──違うってば──。
子供達は玄関ホールにいるようだ。
一番声の大きなリーダー的な立ち位置の奴と、「タクミ」と呼ばれた奴。そして「ユリ」と呼ばれた子。少なくとも三人はいるようだが、足音はもう少し多いような気がする。
──何処から見て回る?
──一階からが良いんじゃない?
言ったのは「タクミ」だろうか。啓介は鼓動が早くなるのを感じた。
──いや、一階はどうでも良いだろ。さっさと二階に行こうぜ。
リーダーの男がそう言った。ほっと息を吐く。
──わ! 階段すげえぼろぼろだぞ!
──気をつけて! 怪我したら大変だよ。
──ねえ、もう帰ろうよ。
初めて女の子の声が聞こえた。「ユリ」だろうか。
──そうっと歩けよ!
ギッ、ギッ、と音を立てながら子供達が階段を上っていく。裕也は出てくるタイミングを見計らっているのだろうか? 出てくるならば階段を上り始める前の方が安全だったんじゃないだろうか? いっそ自分が出て行ってネタばらしをしてしまうか? いやそれも今出て行ったのでは驚かせてしまうだろう──。
そんな思考が啓介の頭の中を飛び回っていた。
その時──、
ずる……、ずる……。
扉越しに、啓介にもはっきりと聞こえた。
今の今まで賑やかだった、子供達の声も、足音もぴたりと止んだ。
ずる……、ずる……、ずる……。
正体がわかっている啓介ですら、肌が軽く粟立つのを感じた。
ずる……、ずる……、ずる……、ぎいっ……。
扉が開く音が聞こえた。
裕也が部屋から出てきたのか?
「うわあああああああ!」
「お化けだあああああああ!」
「きゃああああ!」
「逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ!」
突然、子供達の叫び声が聞こえた。そして、ドタドタと階段を駆け下りる音。バキッ、と板が割れる様な音。続けて乱暴に扉を開く音……。
あっという間に、声は遠ざかり、再び蝉の声だけが部屋の中に響いた。
少し間を置いて、啓介は玄関ホールへと出た。
「裕也!」
声をかけると、二階の寝室の扉が開いた。
「何だよ、お前そこにいたのかよ」
寝室から出てきた裕也が廊下の手摺りから見下ろして言った。
「お前さあ、ちょっとやり過ぎじゃないか?」
「何がだよ」
「ずるずる、って音は良かったけどさ、出てきて驚かすのはダメだろ」
「何言ってんだよ、俺は寝室から出てないぞ。今も寝室から出てきただろ?」
確かに。彼の言うとおり、今し方、裕也は寝室の中から出てきた。一度出て、また中に戻ったような音はしなかったように思う。では、あの時聞こえた扉が開く音は何だったのだろうか。ホールから二階を見渡してみると、書斎の扉がほんの少し開いているようだった。先ほどまではどうだったか。閉まっていただろうか。よく、思い出せない。閉まっていたと思うが、どうだろう。
「とにかく成功だな」
「だな……。うーん」
「どうした?」
ゆっくりと階段を下りながら裕也が訊いた。
「うん、いや、やっぱあんま後味良くないな」
「あー……、だな。部屋ん中でシーツ引き摺ってる時がピークだったわ」
「怪我とかしなかったかな?」
「どうかな……、あ、階段は踏み抜いた奴がいたかも」
「マジ?」
「ほら、ここ」
裕也が踊り場の一段下を指さす。見ると確かに先ほどまでなかった穴が空いていた。
「血とかついてないか? 怪我してたら流石にヤバいぞ」
「うーん……、ついてないと思う」
「携帯のライトで照らしてみろよ」
啓介に言われるまま、裕也はポケットから出した携帯端末のライトを階段の穴へと向けた。
「うん、大丈夫、血はついてない」
「そっか。良かった」
「じゃあ……、えっと、帰るか」
「だな。忘れ物はないか?」
「大丈夫」
言って裕也は紙袋を振って見せた。
「シーツ入ってるか?」
「もちろん」
「ペットボトルは?」
「えっと……、あ、一本忘れた」
「取って来いよ」
「えー、いやもうこの階段上るの嫌だって」
「じゃあ、俺が取ってくるよ」
二人が塀の穴から外へ出たのは、もう午後六時半を回った頃だった。
流石に太陽もその姿のほとんどを木々の向こうへ隠しており、辺りは闇に飲み込まれつつあった。
「急ごうぜ」
「ああ。今日はどっちの家で飲む?」
「近い方って言ったら裕也ん家か」
「だな。コンビニ寄って帰ろう」
その夜、飲みながら二人は無意識にお化け屋敷での話題を避けていた。達成感なんてこれっぽっちも感じなかったし、笑い話にする気にもなれなかった。
シーツは丸めて裕也の家のゴミ箱に突っ込んだ。ペットボトルは帰り道のコンビニのゴミ箱に捨てた。
この話はこれでおしまい。
そのつもりだった──。
八月十七日、夜九時。
この日、啓介は珍しく一人、自宅で酒を飲んでいた。
裕也か連絡があったのはそんな時だ。
『家か? ニュース見てるか?』
何だろう、とチャンネルを変えてみる。ニュースをやっているチャンネルは二局あったが、そのどちらもが同じ事件を伝えていた。
『昨日午後六時頃、K県S市、井上裕樹くん十一歳が、友達と遊びに出た帰りに、行方がわからなくなりました。警察の調べによりますと、裕樹君は、友達三人と近所の空き家に忍び込み、その後、行方がわからなくなった模様です。一緒にいた友人は「中に誰かがいた」と話しているとの情報があり、警察は誘拐の可能性もあるとみて捜査しています──』
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