一,稲葉啓介、岩田裕也

 八月十三日。その日は朝から昼過ぎまで雨が降り続き、少しは涼しくなるかと思いきや、日が落ちるにつれてその蒸し暑さは暴力的なものとなり、天気予報でも「夜間の熱中症にはご注意ください」と、天気予報士達が口をそろえて予告していた。


 午後八時、啓介は裕也の家にいた。この家に冷房と呼べるものは扇風機しかない。しかも壊れかけのボロが一台きり。二人は酒を飲みながら、互いに生ぬるい人工の風を奪い合っていた。

 窓は網戸にしてあったが、六畳に満たない彼の城の中は、夜が更けるにつれて涼しくなるどころかますます蒸し暑くなっているように感じた。畳も卓袱台も、自分自身もべたべたしていて不快だった。酒が進む程に、余計に肌はベタついていく。飲むペースを落とした方がいくらか良いかも知れないが、部屋には安物の小さな冷蔵庫が一つきり、しかも大して冷えないのだから、買ってきたビールはさっさと飲むのが一番だった。

 啓介と裕也は、お互いバイトのない日には必ずと言って良いほど、どちらかの家に集まり、こうして二人で飲んでいた。外に飲みに行く金はないし、他の友人達はあまり酒を飲まない奴らばかりだからだ。

 啓介の両親も裕也の両親も、どちらも毎日晩酌をする家庭だった。だから「大人になったら当然みんな毎日酒を飲むもんだ」と思っていたが、最近の大学生は飲まない奴の方が多いくらいで、二人は驚いた。


 二人が出会ったのは大学の入学式の帰り道だった。地方から出て来たばかりで土地勘のない啓介を、裕也が駅まで連れてってやったのがきっかけだ。話してみると一瞬で気が合い、今では長年の親友のようにさえ感じていた。裕也は地元が大学から近いので、クラスメイトの中には高校以前からの友人もいて、啓介も何度か一緒に出かけたりもしたが、最近は啓介と二人で遊んでいる事の方がずっと多い。何かあったのかと勘ぐりもしたが、結局、飲んべえ二人がまわりからほんの少し距離を置かれているというのが実際のところのようだ。上戸の考えは下戸にはわからないし、下戸の考えは上戸にはわからない。仕方ない事だと、二人はいつしか割り切った。


 午後九時──男二人、話し続ける話題もない。

無言が続いて十五分程経ったところで、裕也が唐突に口を開いた。

「なあ啓介、T町に幽霊屋敷あるだろ?」

 ぼうっとテレビを見ていた啓介は、画面に顔を向けたまま返事をした。

「いや、知らないし」

「マジ? え? 知らない?」

「お前と違って地元じゃねえし」

「あ、そっか、確かに」

「で?」

 体はテレビに向けたまま、啓介は顔だけを裕也の方に向けた。裕也は卓袱台の上で腕を組み、啓介の方を見ていた。

「俺の家の近くからT町の駅に向かうバスに乗るとさ、途中、小さい山みたいなとこのてっぺんに、でかい屋敷があるんだよ。噂によるとさ──」

 そう言って裕也は地元に昔から伝わる怪談話を始めた。

 正直、啓介は興味がなかったが、他に話題もないので、合間合間に茶化しながらも最後まで話を聞いた。

「とにかくその妻の霊がさ、出るんだよ。二階の寝室から、一階へ下りる階段のところまで、ずる……、ずる……、って」

 裕也は怪談の落ちを情感たっぷりに演じて見せたが、そこへ至るまでの語りがあまりにもお粗末だったので、お世辞にも恐ろしさは感じなかった。

「……で?」

 話し終わった裕也が迫真の表情でいつまでも黙っているので、啓介は少し苛立って訊いた。

「で、そう、それでな!」

 予想に反して嬉しそうな反応が返って来たので、少し驚いた。

「でな、俺、子供の頃に地元の友達とその屋敷に探検に行ったのよ」

「孝弘達と?」

 啓介は裕也とは幼なじみであるクラスメイトの名前を適当に言った。

「そうそう。孝弘と、安田もいたな。後は遠藤と……和夫もいたっけな。なんつーかさ、この辺の子供達にとっては一種の通過儀礼っていうか、まあその屋敷に肝試しに行くのが決まりみたいになってたのよ。それである時、放課後みんなで行ってみようってなったわけ」

「幽霊いたの?」

「……お前さ、さっきからさ、話には流れってもんがあるだろうよ。すぐにオチだけ聞こうとするの、良くないと思います!」

「わかったよ。で、はい、どうぞ、続きを話してください。お願いします」

「……でな、いや、まあ結論を言えばさ」

「言っちゃうのかよ」

「もう面倒くさくなったわ。で、結論として、幽霊はいなかったのね」

「だろうね」

「そりゃな。でも、未だに、屋敷はこの辺の子供達の肝試しスポットとして受け継がれているわけよ」

「へえ」

「たぶんこの辺の子供であそこに肝試し行った事のないやつなんて、半分もいないんじゃないか?」

「……多いか少ないか良くわかんねえよ」

「いや半分以上行ってんだから充分すごいだろ。ここらに子供が何人いると思ってんだよ」

「確かに」

「だろ? で、で、ああもう、やっと本題だ」

「本題じゃなかったのかよ」

「こっからが本題」そう言って裕也は卓袱台の上に乗り出すと「俺達がお化けをやろうぜ」と言った。

「は?」

「だって今は夏休みの真っ只中。今肝試しをしないでいつやると言うのか。今頃あの屋敷では、毎日のように子供達が肝試しをしているはず。でもみんな、お化けがいなくてがっかりして帰ってくんだ。可哀想とは思わないのか?」

「いや、良いじゃん、お化けいない方が」

「肝試しだぜ? いた方がいいだろ」

「いやいや、いたら怖いじゃん」

「え? なに、お前お化け怖い系?」

 裕也が馬鹿にしたような口調で言った。

「本当に出てきたら怖いだろ」

「そりゃ本物ならな」

「だろ」

「……あ、これ、俺断られてる感じ?」

「何を?」

「子供驚かすの」

「悪趣味だな、とは思うよ」

「……」

「でも、ちょっと面白そうだな、とも思う」

 啓介の言葉に、曇っていた裕也の表情が一気に明るくなった。

「じゃあやろうぜ!」

「一回だけな」

「おお!」

「でも飛び出して驚かせるとかはなしな。怪我されても困るし」

「ああ、そうだな。どっかに隠れて音を立てるくらいにするか」

「『ずるずる』って?」

「そう、『ずるずる』って」


 二人はさっそく計画を練り始めた。

 普段こういった馬鹿な事をする二人ではなかったが、恋愛ともバカンスとも縁遠い、ただ長いだけの夏休みに、内心飽き飽きしていたのだろう。

 彼らの作戦会議は深夜まで続いた。

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