第8話 3文字の名前

◇◇◇◇◇◇ 〈アワ〉の視点 ◇◇◇◇◇◇


 私は奴隷さんが、直ぐそばまで近づいた気配で、目を覚ましてしまった。

 病気が進行して身体がとても辛いから、こんな近くに来るまで気付けなかったんだ。

 奴隷さんの息づかいを感じて、私はハッとして慌てて起きた。

 これでは、とてもじゃないけど身を守れないよ。


 「おはようございます。奴隷さん」


 私は、朝の挨拶をした。

 朝の挨拶をするのは、ずいぶん久しぶりだ。

 ただの挨拶なのに、なぜか懐かしい。


 「おはよう。でも、俺はもう奴隷じゃないよ。〈はがと〉っていう名前が、ちゃんとあるんだ」


 「〈はがと〉」


 奴隷なのに、3文字の名前。

 偽名ぎめいに、わざわざ3文字の名前を使うのも変だ。

 奴隷さんは、お金持ちの家の子だったのかしら。

 なんなんだろう。


 「そうだよ。君にも名前はあるのかい」


 当たり前でしょう。

 名前くらいはあるわ。

 失礼だと思わないの。


 「ありますよ。私の名前は、〈アワ〉と言います」


 「〈アワ〉か。良い名前だね」


 良い名前? 

 褒めているつもり。

 ごく普通の名前だよ。

 心がこもって無いのが、バレバレよ。


 でも、もう私は子供じゃない。

 大人の対応が出来るんだからね。


 「ありがとう」


 「もう残り少ないけど、朝食だよ」


 荷物が無いから、分かっていたけど。

 食べ物の残りは少ないのね。

 無くなったら、どうするの。

 まさか、私を食べるつもり。


 考えてもしょうがないか。

 今は、この食事を栄養に変えることを優先しよう。

 良く噛んで、食べよう。


 「今日はこの部屋を探索しよう。ガラス板みたいのを見つけてくれ」


 分かっているわ。

 それが無ければ、私たちはここでお終いだわ。

 あっても、お終いかもだけど。


 私は、同意の印にうなずいた。

 私は右側の壁を探し始めたけど、身体がだるくて息苦しくて、ほとんど動けない。

 直ぐに、座り込んでしまった。

 気持ちも悪くて、吐きそうだ。

 もう、泣きたくなる。


 「〈アワ〉、開いたぞ。こっちに来てみろよ」


 〈はがと〉が見つけたようだ。

 良かったけど、あそこまで行くだけでも辛い。

 身体が、いうことをきいてくれない。


 やっとの思いでたどり着くと、〈はがと〉と代わって、壁の外を覗いてみた。


 壁の外は、岩ばかりだ。

 大きな岩が、ゴロゴロしている。

 枯れた木の残骸が、少しあるだけだ。


 塔の外か内かも分からない。

 ぼんやりと明るいのは、なぜなのかしら。


 壁の外は、明るい望みがある感じじゃ無い。

 水も食べ物も、ありそうには見えないよ。


 「〈アワ〉ここに手を置いたまま、待っててくれ。外を見て来る」


 私は、うなずいた。

 他に、どうしようも無い。

 待っていた時間が、短かったのか長かったのか、もう分からなくなってしまった。

 身体が苦しい時は、時間のたち方が変わってしまう。


 〈はがと〉が興奮して帰ってきた。

 声を出して、笑っている。

 何か、良いことがあったの。


 「〈アワ〉、見つけたぞ。すごいんだぞ。冷たくて、無色無臭で、スッキリと澄んでいるんだぞ」


 〈はがと〉が興奮して笑いながら話すので、何を言っているのか分からない。

 はぁー、もっと冷静になれないの。


 「あのう、何ですか」


 「水だよ。命の水だよ」


 「あっ、水、ありました」


 えぇー、水を見つけたの。

 それは、興奮するわ。

 でも、この目で見るまでは信じられない。

 岩だらけの場所に、水場があるとは思えないもの。


 〈はがと〉が、狂っている可能性もまだあるわ。


 「ははは、そうだよ。〈アワ〉も喜べよ」


 私は〈はがと〉が見つけた水を見ようと、歩き始めるが足がもう動いてくれない。

 情けないけど、よぼよぼのおばあさんのようにしか、進めなくなってしまった。

 見かねた〈はがと〉が、おぶってくれようとしている。

 でも、私は伝染病にかかっているんだよ。


 「私に、触ると病気が」


 「縄でしばる時にもう触ったからな、もう遅い気もするから良いよ」


 もう遅いか。

 そうかも知れないな。

 同じ部屋で、過ごした時間もかなり長い。


 〈はがと〉は、どう思っているのだろう。

 根拠も無く、自分はうつらないと思っているのだろう。


 考えてもしょうがないな。

 他人のことを、気にしている立場じゃ無いわ。

 私をさらった、〈はがと〉が悪いんだ。


 意味の無いことを考えているうちに、目的の場所に近づくと、水が滴したたる音がいきなり耳へ飛び込んでくる。

 少し進むと、私の目の前にキラキラと水が見えてきた。

 本当に水があった。

 嘘や見間違いじゃ無かったんだ。


 「あぁぁ」


 私は、悲鳴のような声をあげて、泣き出してしまう。

 美しかったんだ。

 嬉しかったんだ。

 感動したんだ。


 私は口を直接、水につけて、水をお腹一杯飲んだ。

 ただ、美味しかった。

 癒いやされる気がした。

 命が、洗われる気がした。


 「喉は、本当にゴクゴクと動くんだな」


 〈はがと〉が、どうでもいいことを言う。

 それより、この水だ。


 「水です。本当に命の水です。こんなに美味しい水を飲んだのは初めてです」


 私は今味わっている、この感動を誰かに伝えたかった。

 感動で、涙が止まらないよ。


 「そうだろう。命の水だろう。そうだ、ここは、〈命の泉〉と名付けよう」


 「はい。賛成です。良い名前ですね」


 〈はがと〉が、今度は良いことを言う。

 確かに、ここは〈命の泉〉だと強く思った。


 「相応ふさわしい名前だろう」


 「はい。それとお願いがあるのです」


 「なに」


 「身体を水で拭きたいので、一度部屋に連れて帰ってもらえませんか。あの丸い物を、取ってきたいのです」


 私は、この身体に〈命の泉〉の水をかけたいと願った。

 そうしなければ、いけないと強く感じて、我慢出来なかったんだ。


 「ふーん、身体を拭くの。丸い物をどうするの」


 「あれで、水をくむのです。この泉に私が直接入ると、泉が病気で汚れます」


 「そうか。分かったよ」


 〈はがと〉が、また負ぶってくれた。


 部屋の前まで帰り着くと、〈はがと〉が悩みだした。

 丸い物を取ると、隙間が無くなってしまうのを、どう解決するか考えているようだ。

 〈はがと〉は、あまり頭が良くないみたい。

 ずっと奴隷なら、無理もないと思う。


 「あのう、代わりに石を置いたらどうですか」


 「おぉ、〈アワ〉は賢いな」


 「たいしたことじゃないです」


 ここには石しか無いので、ごく当たり前の方法だ。

 褒められるような事じゃないけど、他人に褒められたのは、いつ以来だろう。

 思い出せないくらい、昔のように思う。

 悪い気はしないな。


 石を代わりにしても、問題が無いことが分かったので、もう一度〈命の泉〉へ戻った。


 「少し離れていてもらえませんか。お願いします」


 少しでも早く、〈命の泉〉の水を浴あびたい。

 こんなにワクワクするのは、ほんと久しぶりだよ。


 でも、〈はがと〉の前で裸になるわけにはいかない。

 〈はがと〉は男で、私はハレンチな女じゃないからね。


 裸を見せるのは、好きになった人だけと決めているんだ。

 今はむなしいけど、決めたことは守りたい。

 女性が他人の男に、肌を見せないのは常識でもある。

 病んでいる私の裸なんか、見たく無いと思うけど、〈はがと〉は邪魔だ。


 「そう。分かったよ」


 〈はがと〉は何の迷いも無く、素直に離れていってくれた。

 ありがたい。

 私の裸には、興味が無いのだろう。


 丸い物に《命の泉》の水をくんで、身体にかける。

 皮膚から、命の水がしみ込んでいくみたいだ。


 私の身体が、癒されていくように錯覚する。

 清らかな水は、すごいな。

 気分まで、綺麗に洗ってくれる。

 心も、すごく落ち着いていく。


 服を濡らして、身体を拭いた。

 何日振りだろう。

 いいえ、何日では無いわ。

 何月だわ。


 気持ちが良い。

 身体に付いていた、汚いものが落ちていくのが分かる。


 これからは、いつでも身体を拭けるのが、とっても嬉しい。

 少し前までは、思いもしなかった贅沢だ。


 この《命の泉》のほとりで、死ねたら本望だわ。

 道の上で死ぬより、百倍良い。

 いいえ、千倍だわ。

 ここには、静寂と清らかさがあるもの。

 私をさらった〈はがと〉に感謝だよ。


 ひと通り拭けたから、今日はこれで終わりにしよう。

 いつでも来れるし、弱っている身体に無理させるのも良くない。


 手拭き代わりに使っていた服を、両手で絞るとマズイことが分かった。

 服が、もう服じゃ無くなってしまっているんだ。


 限界だった服が、濡れたことによって、限界を超えたみたい。

 繊維がボロボロになって、絡まってただ糸の塊になってしまっている。


 はぁー、困ったわね。

 下着もボロボロだし、これじゃ、色々見えてしまう。

 どうしよう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る