16

「暁に謝らないといけないことがあるんだ」

 灯先輩は目を伏せて、そう言った。

「今は話せないんだけどね」

「匂わせるようなこと言わないでください」

「いつか話すよ」

 その笑顔が繕ったものであることに、私は気づいていた。

 いつかと信じていたけれど、知る機会は二度と訪れなかった。



 日々は過ぎていく。

 


 初詣に行った。

 地元にある大きな神社に、灯先輩と一緒に。服装は着物ではなくて、揃って洋服。趣よりも実用性を取った。

 私は神様を信じていない。祈る意味を、かつての私は理解していなかった。今は、違う。

 二礼二拍手一礼。

「――」

 先輩との幸福を、願った。


 瞑っていた目を開くと、先輩もまた夢から醒めた後のように静謐な表情で、

「何だか一瞬、隣に暁がいることを忘れてたよ」

「そんなに真剣に祈ってたんですか」

「うん、真剣だった。もはやトランス状態だったと言ってもいい」

 一分も経っていないはずの拝礼を、大真面目に誇張して力説していた。

 わずかばかりの時間でも私より思考を優先されたのだから、神様だって満足だろう。そう私は断じて、先輩の手を取って歩き出す。今はもう、私の時間。

「ねえ、握る力、強くない?」

「いつも通りですよ」

「嫉妬してる?」

 違うはず。

 夏祭りでは先輩に浴衣を着てもらおうと、遠からじはずの夏に想いを馳せた。



 冬休みが終わり、三学期が始まった。

 私は外部受験を志している――進路調査票に正直に記入すると、放課後、担任の教員に呼び出された。進路相談と称した彼の知識披露会だった。こんな目に遭うくらいなら嘘を書いておけばよかったと感じた。

 生徒指導室を後にして、私の向かう先は図書室だった。

 図書室は新校舎の正面玄関の隣にあって、グラウンドという騒音発生場から距離を置いている。静寂を物理的にも規律的にも決定づけられている点は魅力だけれど、人間が不特定多数に出入りする点が苦手で、私は滞在した機会が少ない。

 今日は図書室に籠って勉強をする。その珍しい習慣は、灯先輩が一緒にいるから。


「お待たせしてすみません」

 抑えた声で話しかける。図書室の隅のテーブル席に、先輩が先に座って参考書とノートを開いていた。

「結構長かったね」

「そうなんです。本当に」

 どうしてそんなに他人の人生に口を挟みたいのか知れないけれど、教員の教員めいた振る舞いは留まる様子がなかった。私が両親の了承を取得済みという体にすることで、なんとか切り上げることができた。

 肩を並べて勉強しながら、経緯を話す。

「責任の所在を明らかにしたのは良かったと思う。まあ、そのうち本当に両親と話すことになるだろうけど」

「それが一番面倒です」


 たとえ反対されても押し切るつもりだった。そうすると、勘当なり家を追い出されるなりするのだろうか。換金できる所持品は今のうちに売ってしまおうかと思った。

 考えていると、左肩に温かな重みが加わった。ほのかな甘い香りを伴って、先輩が私の肩に頭を乗せていた。

「私だけ、少し休憩」

「勝手ですね……」

 私は構わず勉強を続ける。文字を書いたり消したりするときの振動が先輩の不満だったようで、最終的には、私の膝に枕を移すことで落ち着いた。かすかな寝息が、図書室の乾いた空気と私の肌をくすぐる。

 先輩の好きにしてくれれば、良い。

 


 チョコレートをどうするかという問題が、話の俎上に載せられた。

 バレンタインデー前のことだった。

「贈り合うより、一緒にスイーツを食べに行くのはどうかな」

 手作りにしても既製品にしてもコストがかかるから、少し淡白だけれど合理的な判断。

 私は頷いた。

「どこのお店にします?」

「高いものを一個だけと、安いものをたくさん食べられるのと、どっちがいい?」

「安くてたくさんの方でしょうか」

「よし、そうしよう」

 頬を緩ませる灯先輩を見ていると、選択は正しかったように思えた。


 バレンタイン当日、駅前のファミレスに先輩と行った。予定通りにスイーツを注文していく。チョコかチョコでないかにはこだわらず、良い機会にと気になるものを片端から。お金の面で言えば普通に贈り合うよりオーバーしている気がするけれど、考えないことにした。

「あーんとか、する?」

「……」

 糖分を摂っているはずなのに、上手く頭が働いていなかった。

 


 先輩と一緒に登下校をした。

 先輩と一緒に学食で昼食を摂った。

 先輩と一緒に勉強をした。

 先輩と一緒に動物園へパンダを見に行った。

 先輩と一緒に夜遅くまで電話をした。

 先輩と一緒に喫茶店で休息した。

 先輩と一緒に映画を観た。

 先輩と一緒に本屋を巡った。

 先輩と一緒にあてどなく歩いた。

 先輩と一緒に熱を感じた。



 三月一日、卒業式。

 灯先輩は、目標通りに高校を卒業することを果たした。

 式典を終えて、講堂の前のそこかしこで別れを惜しむ学生たちを、私たちは遠巻きに眺めて佇んでいた。すぐに帰ることもできたはずだけれど、そうしていることをどちらともなく選んだ。卒業という現実の訪れを、帰宅しないことで遠くに押しやろうとするみたいに。子供じみた抵抗。文化祭の頃から進歩がない。


「感傷的、という感じです」

 先輩の細まった瞳に、その色を見出す。けれど、

「感傷は、少し違うかな。お祝いに暁に何をしてもらおうかなって考えてた」

「別になんでもしますけど」

 呆れて気の抜けたまま、そんなことを私が口走ってしまうものだから、先輩は水を得た魚のごとく瞳を輝かせた。

「ほんと? 二言は認めないよ」

「……先輩の良心に任せます」

 数秒の間にとんでもないことに巻き込まれてしまった気がする。

 先輩は、自由を与えられた子供に似た面持ちで、ひたすらに候補らしきものを指折り数え始めた。両の手の指を何周もした。一通り済んだ頃、その中でリターンと良心の最大公約数らしい一つを、先輩は決めたようだった。


「頭、撫でて。それから、名前を呼んで」

「えぇ」

「引かないでよ」

「引いてませんって」

 私より年上で、背の高い先輩。彼女が少ししゃがんで、差し出す頭。綺麗な髪、可愛いつむじ。私は柔く手のひらで触れて、いつか先輩にそうしてもらった手つきを思い出しながら、彼女の頭を撫でた。

「灯、先輩」

「名前だけ」

「……灯」

「うん」

 こんなことで満足だろうか。寝息のような笑みを零す先輩に、私はわからなくなる。


 やがて撫でられるのを終えて顔を上げた先輩は、私に言った。

「ありがとう。今度はこっちの番だね。暁から私に、お願いはある?」

 少し驚いて、変な話だと思った。先輩への卒業祝いとしてやっていたことのはずが、もはや関係がなくなっている。それはまるで、先輩が私のお願いを聞くために始めた口実だったかのように。

「暁が望むなら、明日からも高校に来るよ」

「不審者で捕まります」

「部室や屋上に隠れておこう」

「不法侵入です」

「門の前までで我慢しようか」

「それだって問題視する人はいますよ」

 全てはどうしようもなくて。

 私たちはもう二度と、この学校で同じ時間を過ごすことができなくなっていた。

 自覚する。私、あるいは先輩も、きっとまだ縛られている。だから可能性を探ってしまう。それは、私がまだ言うべき言葉を遠ざけているせいに思えた。


「……私が卒業するまで、待っていてください。ただ、それだけでいいです」

「いいの?」

 私は頷き、伝えるべきだった言葉を、ようやく口にする。

「灯。ご卒業、おめでとうございます」

 よくできました、と一言を付け加えた。

 涙は出なかった。けれど心はざらつくようで、これを感傷と知った。



 ホワイトデーにも、スイーツを好きなだけ食べに行った。

 相変わらず灯先輩は、スイーツよりも甘ったるいようなやりとりを要求してきた。甘いものは全て別腹だと言っていた。

 納得したわけではないけれど、私は時に誤魔化し、時に受け入れた。

 手を繋いで帰った。



 新学期が始まった。私は三年生になった。

 灯先輩のいない高校は、想定していたより苦痛ではなかった。本質的に自分を孤独に適した人間だと実感する。

 と言っても、一定の頻度でスマホのメッセージのやりとりを先輩と続けていたから、我ながらあまり説得力はない気がする。離れた距離にあっても、先輩の熱をどこかに感じていた。

 一年周期で発生するインスタント友達との交流を無難にかわしつつ、大学受験に向けた勉強に精を出していた。塾に通うつもりはないけれど、夏には予備校の短期合宿に申し込むことを予定していた。修学旅行さえ苦痛を覚える私にしては、随分と大胆な決断だ。


 放課後に先輩と会うことは簡単で、しかし実行するのは控えていた。いつでも叶うことを、大事にとっておきたかった。

 今はまだ大丈夫。本当に辛いときは、プラネタリウムに行けばいい。先輩と一緒に。頼れば、応えてくれる。あるいは、頼られて、応えたい。

 願いの叶ういつかを、私は知らない。知らないのに、知っている気がする。

 それが幸福だった。



 ――全て間違いだった。



 四月末のある夜は、私は自室で机に向かって黙々と勉強をしていた。

 少し気がかりだったのは、午後からずっと灯先輩のメッセージが途絶えていたこと。とは言え、一々催促するのも非常識で、私は悠長に待つ心積もりだった。

 部屋の扉をノックする音。私の返事に応じて扉が開かれる。その先に立っていたのは、母親だった。

「学校の先生から、電話が来てるよ」

 手には電話の子機。表情は、いつになく私との距離を測りかねているように見えた。

 母親から子機を受け取って、私は電話に出た。

「はい、もしもし……」

「十河暁さんだね?」

 学校の先生をそう多くは知らず、それは数少ない聞き覚えのある人物の声だった。

 養護教諭の男性。在りし日の天文部の顧問。

「……そうですが」

「急にすまない。もうお母さんから話は聞いている?」

「いえ、特には」

 視線を滑らせると、奇妙にも未だ部屋の出入り口のところに佇んで、こちらをおずおずと窺う母親の姿があった。不気味で、目障りだと思った。

「わかった。落ち着いて聞いてほしい」

 自身で勝手に覚悟を決めるみたいな咳払いを電話口に流される。

 スマホを弄る。先輩から、メッセージか電話で割り込んできてくれればいいのに。

「君にはすぐに知らせないといけないと思った。君は彼女と仲が良かったから」

 彼女。先輩のことだろう。私に仲が良いと形容することのできる人なんて、世界中に先輩ただひとりだけ。

「駅前の交差点で大きな交通事故があった」

 聞くと、隣の市のことだった。私にはほとんど行く機会がない場所だった。

「事故に巻き込まれて、多くの怪我人がいる」

 だから? 興味がなかった。はっきり言って、誰が傷つこうがどうでもよかった。それが先輩でさえなければ。先輩でさえなければ、誰でも勝手に傷ついていればいい。問題ない。関係ない。先輩でさえなければ。



「その中のひとりに、千条灯さんがいた」


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私の遺書、その付言事項 サトスガ @sato_sugar

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