第35話 抱擁と追撃
東の森を出て、エレナを件の牡牛から助けたのが二週間前のことだ。
彼女に連れられて歩いた草原の町ハドラまでの道のりを、今度はハドラから逃げるように俺たちは馬車で駆けている。
あの時、数十分かかった道程を、十分もかからずに走り抜けた。
そうして俺たちはハドラ東にある森林にたどり着く。始まりの森。この森の奥深くで、かつての俺は母さんと平穏な日々を過ごしていた。
「追撃は……ないな」
森についた俺は、常に起動している探知魔法の他にも、動体感知から温度、物体、気体などなど、複数の魔法を組み合わせた探知魔法を広げ、周辺百メートルをスキャンする。
たいていの魔物の潜伏を看破できるこの魔法によって、追手らしき影がないことが分かった。その事実に、いったん胸をなでおろす。
「エレナ」
「なに、ユーリ」
「確か、ギルドがくれた物資の中にバッグがあったよな。食料と水をそんなかに詰めといてくれるか」
「りょうかーい」
それから俺は、エレナに指示を出して馬車から降りた。
ここからは馬車を使わないつもりだ。なにしろ森の中は木々に溢れていて馬車の横幅ではあまり速度が出せない。そうなると俺が少女を抱えて走った方が速度が出るのだ。
ギルドから貰った支給品の方はエレナに任せる。12歳の子供だけれど、彼女も立派な銅等級冒険者だ。多少重い荷物を運ぶ程度朝飯前だろう。
「おい、大丈夫か」
馬を馬車から放して逃がした後、救出した少女を運ぶために荷台に飛び乗る。それから、相も変わらず生気のない瞳をした彼女に向かって俺は声をかけた。
「な……」
「……な?」
「なぐら、ないで……やめてよ……わたし、なんにもしてないのに……やめて……」
うわ言のようにそう呟く少女を見て、胸が痛くなる。頭を抱えて、まるで胎児のように体を縮こまらせるその姿は、本能が取る防御態勢だ。ただ話しかけられただけなのに、反射的にそんな行動をとるということは――本能に刻み込まれるほどに、そういうことをされてきたという証明。
何とも酷い話だ。
「大丈夫だ」
そんな彼女に、何をするのが正解かなんて俺にはわからない。だけど、俺は敵ではないのだから。言葉ではなくそれを伝えるために、俺は彼女を抱きしめた。
これは前世の知識になるけれど、ハグには人を安心させる効果があると聞いたことがある。もちろん、それがどういう原理で安心させることができるのかなんてわからないけれど。それでも、彼女を安心させるために出来ることはしたかった。
「大丈夫。ここには君を攻撃する人なんていない。だから、落ち着いて……」
「うっ……うぅ……わたし、わたし……」
「何も言わなくて大丈夫。ここはもう安全だ」
ぽろぽろと涙を零す彼女が落ち着くまでそうした後に、泣き止んだのを確かめてから彼女を荷台から降ろした。
「っと、やっぱりまだ体力が戻ってないか」
しかし、長いこと拘束されていたのか、ふらふらとした彼女は歩くこともままならない様子だ。
そのことに申し訳なさそうにする彼女は、項垂れるように頭を下げて言う。
「ごめんなさい」
「気にしねぇよ。とりあえず、俺が運ぶから掴まってくれ」
「あ、ありがとう……えと……」
俺の目を見て言葉を濁す彼女。そういえば名前を言ってなかったな、と。だから俺は、彼女の手を取りながら名乗った。
「ユーリだ。魔人族のユーリ」
「あ、えと……わたし、は、くるえら。くるえら・あずがーど……」
クルエラ・アズガード。それが彼女の名前らしい。
彼女の年のころは15歳ぐらいだろうか。俺よりも数段背が高い彼女の灰色の髪の上には、人間とは違う亜人である獣人族を示す獣のような耳がぴょこんと生えていた。片耳だけ。もう片方の耳は、ない。
猫のようなこの耳は確か、猫人氏族の血統だったか。耳の形によって氏族を形成する彼らは、世界中の各地で獣人族のコミュニティを形成して生活していたのだとか。ただし、それも昔の話。今は人間の侵略によって、多くの獣人族の村が焼き討ちにされたと聞く――
「よろしくクルエラ! 私はエレナ!」
「ひぇ……!?」
そんな風に俺たちが名乗りあっていると、食料をバックに詰め込んでいたエレナも会話に入って来た。ただ、横から大声で話しかけられたこともあってか、調子が戻り切っていない彼女はびくりと驚いた猫のように肩を震わせて驚く。それから、しなだれかかるように俺に抱き着いてきた。
「ちょ、クルエラ……」
「ゆーり……ゆーりぃ……」
「あー……ごめんごめん。脅かしちゃったみたいだ。反省反省」
「悪いなエレナ。まだ落ち着いてないみたいだから、自己紹介はまた後にしてくれ」
「うん、そうしとく」
一見落ち着いた風な彼女であるけれど、まだまだ周りが怖いらしい。まあ、仕方がないことか。とりあえず、クルエラの反応にちょっと凹みかけているエレナをフォローしつつ、俺はクルエラを抱きかかえ――
「――なんだッ!?」
その瞬間、急に俺の探知範囲に侵入してきた異物に気づく。かなり大きな物体だ。おそらくは魔物。その大きさは、四メートル弱ほど。それが恐ろしい速さでこちらへと向かってきている。数秒としないうちに、俺たちの下に到達するだろう。
「エレナ!」
「なに!」
「何かが来る! クルエラのことは任せた!」
「う、うんわかった!」
クルエラには悪いけれど、何かが襲って来たとして今対処できるのは俺だけだ。エレナへとクルエラを預けた後に、急いで俺は大地を操る魔法を操り、周りの木々を巻き込んで防壁を作り上げた。
しかし、その防壁はいともたやすく破壊されてしまう。
「なにが、起きた……!!」
幸運なことに俺たちへの被害はゼロだ。おそらくは大地の防壁がこちらへと突っ込んできた魔物の視界を遮ったおかげだろう。
「ユーリ!」
「こっちは大丈夫だ!」
「こっちも問題ないよ! それよりも――」
怯えるクルエラを抱きしめてパニックを起こして暴れない様に抑えるエレナは、俺の安否を確かめた後に、信じられないようなものを見る目で襲い掛かって来た魔物を見た。
「あ、あれ……前に、見た……」
突如として現れた魔物は、とても見覚えのある形をしていた。
その魔物は、俺がエレナと出会った時に、彼女を殺そうと猛り狂ってた怪物だ。その魔物は、エレナを銅等級にする特訓をしていた最中に再び表れ、油断した俺が死にかけた怪物だ。その魔物は、魔物に詳しいはずの冒険者ギルドの長をして、意味不明の生物だと言わしめた化物だ。
それはあの、巨大な牛の魔物だった。
そしてその上には、見覚えのある女が立っている。
「チッ……あの怪物は、お前の仕業だったのかよ――チナツ!!」
「その名を呼ぶんじゃねぇよガキがぁ……絶対にぶっ殺してやるからな!!」
勇者チナツ。
彼女は、森の方から現れた。
「ああもう! 私の完っ璧な作戦が台無しじゃない! 間抜け面したてめぇーら家畜以下が森の中に入って来たところを轢き殺そうって算段だってのに、ぐだぐだぐだぐだ入り口でくっちゃべりやがって……いつまで私の時間を無駄に使わせる気なの!?」
「そんなに時間を気にするなら、さっさと帰ってくれても構わなかったんだぜ」
「うるさいうるさいうるさい!! 私を虚仮にした代償は支払ってもらうに決まってんだろぉがぁあああ!! 私は! 人間の! アイドルなんだぞ!! 誰もが憧れる存在なんだぞ!!」
狂乱するように声を荒げる彼女は、ハルバードを片手に俺たちを威圧する。
同時に、空高く叫んだ。
「〈
魔法……じゃない。聞いたことのない発動句だが、それ以上に魔力の動きがない。おそらくはこれが、勇者を勇者たらしめる力。
その力にどんな意味があるのか。俺はこれから知ることになるのだろう。
「死ねぇ!!」
巨大な牡牛は一匹だけではなかった。チナツが騎乗するそれと同じような牡牛たちが、何匹も何匹も木々をへし折り戦場に現れる。
「は、ははっ……やべぇな……これは……」
ゴムボールのような膨れ上がった筋肉に、狂気とも言える怒気で武装した牡牛たち。たった一匹だけでも脅威だった怪物たちが、ぐるりと俺たちを取り囲んだ。
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