第5話 Destination

 空は青く晴れていた。

 昨日の夜の嵐が嘘のようだ。だが、波はまだ高く、船は波を食らって縦に横にと大きく揺れた。それが、嵐が嘘でなかったことをよく教えてくれている。

 「いやあ、とんだことでお詫び申し上げます」

 上等な服が水浸しになり、日に照らされて乾き始めたところには白く塩が浮かび上がり、それにあちこちに青あざと打撲傷を作っているような男たちを見て、コリンス船長は謝った。

 甲板に出て来た客は三人。

 「ヴィオラ」の背の低い男が、金塊の詰まったチェロのケースの番をするために残っている。

 船長が続ける。

 「遺憾ながらサルタンの宮廷の昼食会で演奏はできなくなったと思いますが、サルタンとてあの嵐で国土も宮殿もたいへんなことになってるでしょうからな。恨みには思いますまい」

 「はあ……」

 黒髯の男があいまいに答える。

 昨日、船に乗り込むときに、コニディーのサルタンの昼食会で演奏する、などと言ったことを覚えているかどうか。

 「ほら、もうすぐそこが目的地です。水先案内の蒸気艇もこっちへ向かってるところですし」

 直立した煙突から黒と白の混じった煙を吐きながら近づいてくる小型艇を見て、甲板に立った三人の男は一様にほっと息をついた。

 だが。

 黒髯の男が、何かが違っているのに気がついたらしい。

 舳先の向こうに広がっている街並みを目を細めて見る。

 幅の広い、大きな港と、その向こうに広がる街。

 古びた煉瓦造りの教会と、高台に築かれた異教の寺院のドーム。

 「おいっ!」

 黒髯が大声で叫ぶ。

 「ここはセントローレンスじゃないか!」

 「そうですが」

 コリンス船長は当然のことのように答えた。

 「お客さん方、こちらにご用がおありなのでは?」

 黒髯の男は度を失っていた。

 「コニディーに着けろと言ったはずだ! セントローレンスにはもう何の用もない! 何を勝手にっ!」

 「おや、そうでしたか」

 コリンス船長がとぼける。

 「もしお客さん方がセントローレンスに何の用もないとしたら、たぶん、セントローレンスのほうに、お客さん方に用のある方がいらっしゃるのかも知れませんなぁ」

 「だましたな!」

 そう叫んだのは、目をむいてしゃべる癖のあるチェロの男だ。

 電光石火の早業で拳銃を引き抜き、銃口を船長に向けて引き金を引く。

 ……つもりだったのかも知れないが、まず、革のケースが水を吸っていてふやけていて、拳銃を「電光石火」で取り出すことができなかった。

 それに、銃桿じゅうかんに水の溜まった拳銃で弾が撃てるはずもなかった。

 そんなことに気を取られているところに、蒸気艇が接舷する。

 ヨーロッパ人とアジア人混成の警官隊が頑丈な革靴の靴音を響かせてパーシャンハウンド号に乗り込んでくる。

 海の波はおさまっていない。

 蒸気艇とスクーナー船は波を受けてそれぞれが複雑に揺れている。だいたい、スクーナー船は帆を上げたままなので港に向かって走り続けている。それでも舷をすり合わせたまま警官隊が乗り移れたのは、蒸気艇が器用にスクーナー船の動きに合わせて港へと後退してくれているからだが。

 甲板にいた三人はたちまち捕縛されてしまった。船艙にいた男も船員らに捕まって甲板上に引っ立てられてきた。

 「おい」

 黒髯の男が声を荒らげる。

 「おれたちはアジア演奏旅行中のヴァージル弦楽カルテットのメンバーだぞ。それを逮捕状もなしに逮捕とは」

 「ま」

 船長が言う。

 「とりあえずは、パーシャンハウンド号のジョージ・コリンス船長に対する殺人未遂の現行犯ですな」

 「それに」

と、蒸気艇からこちらを見上げて言ったのは、男の警官と同じような服を着ているが、女だった。

 アジア人か、アジア人とヨーロッパ人の混血らしい。がっちりした体格で、がっちりした、という以上に、やや肥えている。

 しっかりした声で言う。

 「ご高名なご自身のカルテット名を取り違えられるなんて。ヴァージル弦楽カルテットなら、この晴れ空の下、お泊まりになっていたホテルのバルコニーでいましがた素晴らしい演奏を聴かせてくれましたよ」

 女は口角を引き上げ、目を細めてにんまりと笑った。

 よく肥えた猫のように。

 「さて、高名なタラント犯罪カルテットのみなさん。代理領事から逮捕状も出ていますから、ご心配なさらなくても、お迎えする準備は整っておりますよ」

 「おのれっ!」

 黒髯が大声で罵った。

 「おまえのような植民地警官の女に……」

 その瞬間に黒髯の体は宙に飛んだ。

 屈強なヨーロッパ人の警官が空中に投げ出したのだ。

 落ちたのは、蒸気艇の甲板の上、それもボイラーの煙管えんかん部の上だった。

 この世のものとは思えないほどの悲鳴が響き渡る。

 昨夜の打ち身の上に大きな火傷の傷をこしらえたのだろうけれど。

 だからといって、だれかに同情してもらえる、というものでもない。

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