第22話 @中嶋和馬

 それは美しい満月の夜だった。


 雫と会ってからおよそ五年が経ち、常連さんも歳を取ったり身体を壊したりと少しずつ足が遠のいてきたりしているけれど、お店を閉めるつもりはまだまだなかった。


『喧嘩した友達と仲直りした』

『好きな人と付き合えた』

『気がかりだった面接が上手くいった』

『今度結婚します』

『聞いてくださいよ、赤ちゃん出来たっす』

『娘がようやく笑いましたよ、ほほ』


 そんなお客さんを見てきて、そんな未来が目に見えて、そんな時は世界が輝いて見えたからね。


『マスターは結婚しないの?』


 たまにそんなことを言われたりもあったけど、願望がないわけでもない。


 だけど、思い出せる感情の昂りの最大は、多分彼女で最後なんだろう。



「今日と同じだな…」



 お客さんにいただいた、不思議な月の絵を眺めて酒を飲む。


 現実の満月は、見つけようとするもんじゃなくて、例えば夜、何げなく見上げた時に出会うのがいいのだと思う。


 そんな時の月はこの絵みたいに、瑞々しさが違うんだよね。


 まあ、酒のせいかもだけど。


 しかし、この不思議な色合いの月夜の絵は、五年が経って、なんだか色が変わってしまった。


 今じゃ海の色が月の半分まで侵食してるみたいだ。



「…呪いじゃないだろうか…」



 生きていたらまた来ると物騒なことを言った彼は元気だろうか。


 そういえば、結局聞けず終いだったけど、何があって彼女と縁りを戻したのだろうか。何故かそこだけはぼかしていたけど。


 まあ、あの彼女のことだ。無理矢理か強引なのだろうけれど、別に話してくれても良いのに。


 覚悟を決めた女の人に、男は勝てないものなんだよ。


 そもそもね。


 そんな事を考えながら古い曲を掛けた。微睡まどろみながら、お酒を飲んでギターを適当に弾いている時だった。



「和くん、久しぶり」


「…いらっしゃい…? 随分と…久しぶりだね」



 あの日の服で、彼女はお店に入ってきた。嘘、もうすぐ朝三時なんだけど…。



「うん。ただいま」


「…ははは。おかえり。なんか見違えたね」


「……もしかして歳のこと?」



 そんなことでは慌てない。何万回聞いてきたセリフだと思ってるんだい。睨んでも可愛いだけさ。



「違うよ。雰囲気がさ。あれ? 髪切った?」


「ふふ。何それ。髪くらい切るわよ」



 通じないか。割と鉄板なんだけど。しかし、あれから何年だろうか。少しメイクが強いくらいだけど、同い歳なのに…すごいな…。


 しかし、何だ? 今度は何だ?


 見たところ落ち込んでるような感じも、悩みがあるような感じにも見えないけど…。



「乾杯しましょう」


「ああ、うん、そうしようか」



 それから雫に言われる通りにキツめのカクテルを作り、一緒に乾杯した。


 彼女はあれからおじさんおばさんとは仲直りしたようで、今では頻繁に会ってるらしい。


 それは良かったねと二人で笑い合う。


 どうやらお節介はバレてはないようだ。


 バレてもいいけど、そういうのは格好がつかないからね。罪悪感にプラスされたく無いしさ。


 途端に話がつき、何となく二人で黙ってしまった。


 でもそれは懐かしい歌のせいだと思う。


 思春期に聞いた曲は、何年経っても色褪せない。その時代に生きた人同士の繋がりを感じてしまう時がある。


 それを二人で聞いていた。鼻歌でも歌ったのかもしれないし、指で刻んだかもしれない。


 それは僕の部屋だったかもしれないし、彼女の部屋だったのかもしれない。


 あるいは学生時代の昼休みの放送だったかもしれないし、コンビニやデパート、カラオケだったのかもしれない。


 それとも未来を目指していた時の深夜だったり、地元を離れた時の部屋だったのかもしれない。


 そんな昔に浸ったところで何の意味も無いのかもしれないけれど、それがいいんだ。


 変わること、変わらないこと。


 それがロックなんだって誰だったか言ってた気がする。


 聴けば途端に時間旅行に連れて行ってくれるんだ。関係あるかないかすらも別に構わないんだよ。


 水滴の滴る彼女のグラスを拭こうとした時、スッと手に手を添えられた。


 ぞくりとするような、冷たくて、熱い指先だった。



「ね、和くん、お願いがあるの」


「な、なんだい?」



 なんだろう。何かドキドキしてしまうのは、何なのだろうか。艶艶あでつやというか、妖艶というか、不満の募る子持ち人妻に感じる業をなんとなく感じてしまった。


 いや、これはおそらく酒と曲といつかの思春期のせいだろう。



「あの、…また動画を見て欲しいの」


「…へ?」



 何言ってんのこの人…。


 もしかして僕の初恋の人って、サイコパスだったのかな?



「ぷふ、和くん、その顔はなぁに…?」


「それは僕のセリフじゃないかな」



 なんでそんなに明るいのさ…。


 いや、酔ってるのか。


 まあ、別に珍しくないし、嫌いじゃないけどさ。


 それにどれだけ頭おかしい人を見てきたと思ってるんだい。


 僕のハードルの低さを侮ってもらっちゃ困る。



「だめ?」


「いいよ」


「…なぜか、聞いてもいい…?」



 まぁ、どんなもしもが、君の今に割り込んでいたとしても、あるいは化け物みたいな変態さんだったとしても、ドン引きするような事が起きたとしても、構わないさ。


 そう、例えばいつか、君の前で言おうと思ってたんだけどさ。



「僕はずっと雫の味方さ」



 たとえ、また裏切られても。

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