第16話

 和馬の元を訪れてから半年後、雫は下腹を撫でていた。



「またやってんのか」


「だって嬉しいですし…」


「まあな」



 隣に座る隆章に雫は笑いかける。雫の笑顔はどこか仄暗い笑みだったが、隆章は気づかなかった。



「そういえばまた旅行に行こうって里香が言ってたな。どうする?」


「あなたはいけないのでしょう? 私だけなんて…」


「はっ、気にすんな。産んだら行きにくいしな。行ってこいよ」


「でも…」


「良いって。それにようやく俺も昇進が見えてきたしな。今が頑張り時だからな…」



 それは本当だろうけど、おそらくそれだけじゃない。余裕の仮面の下にある焦りを雫は静かに感じ取った。



「そんなに言ってくれるなら…そうしようかしら」



 着々と崩壊の足音は近づいていたが、それは雫にしか聞こえてはいなかった。






 あのUSBの動画を確認した雫は戸塚誠太を自宅へと呼び出した。嬉しそうな顔を隠しもしない誠太は、出されたお茶を飲みながら切り出した。



「それで話って?」


「これ…戸塚君が置いていったんでしょう?」



 プログレス、そう書かれたUSBをテーブルに置くと、誠太はすぐにそれを手に取った。



「そうだよ。どうだった?」


「最低ね」



 雫は苦しそうな顔を見せながら誠太にそう返した。それを見た誠太はにぃっと笑った。それは雫がかつて一度も見たことのないほどのいやらしい笑みだった。



「で、どうする?」


「どうする…?」


「はは、先輩、卒業したら良い子ちゃんで真面目とかキモいでしょ。バラされたらまずいよね」


「……」



 どうやら彼はこのUSBに入ってる内容をやはりアレしか知らないようだ。表情に出さないようにと雫は下を向く。


 それを見た誠太は手応えを感じた。



「けど、これを見て先輩に言ってないところを見ると、脈ありかな?」


「…どういう意味かしら」


「先輩も今の生活も、どっちとも捨てられないんでしょ」


「…」



 今の生活の豊かさを、雫はおかしいとは特に思わなかった。隆章が例え優秀だったとしても、すぐにあんな良いマンションには住めないと今ならわかる。隆章の実家は別段裕福には見えなかった。その時に気づくことだって出来たはずだ。


 雫は拳を強く握った。



「何をしてきたか教えてもらえるのかしら」


「もちろん。けど、ならわかるよね」


「…何をすればいいのかしら」


「そりゃ決まってるでしょ。一回お相手してもらいたかったんだよね。前から雫ちゃん良いなって思っててさ」



 やっぱりそうなんだ。しかもおそらく一回では終わらないんだろうな。雫はそう思った。



「……本当に最低ね」



 それは私もだろうな。雫はそう思ってくすりと笑った。これは自嘲だ。



「お? それどんな笑い?」


「奥さんのことは? 結婚してるんでしょう?」



 そう言って誠太の左手を見ても、そこに指輪はなかった。



「はは、脅す気? 勘違いしないで欲しいんだけどこれは雫ちゃんのためでもあるんだよ」


「私のため?」


「そう。あくまで取引は対等じゃないといけない。秘密は共有しないと秘密にならないからね。経験ないかな」


「……」



 おそらく誠太は特に意識はしてないのだろう。あくまで一般的な意見のように軽く言うのだ。だが、雫にとっては心を抉るような一言だった。


 推し黙る雫を見て、揺れているなと勘違いした誠太はさらに続けた。



「ああ、そうだ。内緒で自由に使えるお金欲しくない? もっとも、それで安心したいってのが大きいけどね。先輩には黙っておくよ」


「…本当に?」


「っ、はは、そうこなくちゃ。もちろんあのことも漏らさないから安心していいよ。データはここにしかもう無いし」



 誠太はごくりと生唾を飲んで立ち上がり、雫の背後からその細い肩を掴んだ。そのまま艶やかな髪を触り、胸の谷間に視線を落とす。


 ぞわりとした悪寒が雫を襲う。


 

「…すぐ終わらせて…」


「ッ、わかってるって」



 雫は知らないだろうが、今日隆章は遅くまで帰ってこないことを誠太は知っていた。



「でもやっぱり私…駄目、あっ…いやっ、戸塚君ちょっと待ってっ!」


「はは、俺、抵抗されると燃えるんだよね」



 そして、強引な情事が始まった。


 机の上にあるカバンの中に仕込んでいたカメラのレンズは、その様子を静かに映していた。

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