第14話

 だがしかし。記憶というものは唐突に鮮明に襲いかかってくるもので、強引に教室の景色を脳裏に蘇らせる。

 『弟ォ?ハァ?知らねっつーの』

 ニヤニヤしながら近寄ってくる馬鹿。喧嘩の強さだって所詮クラスで二番目。そいつに、軽蔑された。

 私は、不登校の弟の悪評を無責任に広げないで、とお願いしただけなのに。

『どういうこと?』

 何か、知っている風だった。小学三年生男児が、いいこと思いついちゃった、と言わんばかりに、媚びているともとれる伏し目で自慢げだ。私にまだ教えていない情報がある筈。癪だが気になるのは確かで、私は半ばしぶしぶ丁寧に細部を仰ごうとする。

『だってさ、ゆ』

『お前に弟クンなんて、居るんだ』

 何ほざいてんだテメェ。

『同じクラスでしょ?』

『優っていうの。覚えてない?』

 畳みかけた。

『優っていうんだー。ふーん。案外、名前によらず乱暴だったりしてー』

『は?少なくともアンタよりは余程マシだから安心して』

 ここだけ聞くと、友達の会話。しかし、周囲にいた子達が異変を察知する。休み時間の教室で、悪意と敵意のこもった淡々とした応酬が繰り広げられているからか。

『あっそ。へー』

 二段階、奴の声量が上がった。周りの生徒らへの威圧だろう。勿論私には効かない。学年一喧嘩が強いのは私。コイツじゃない。口でも腕でも私が上。

 なのに何故、余裕がある?勝算でもあるのだろうか。まあ、そんなもの消し去れば良い。

『もしかしてさ、お前知らねぇの?弟のウワサ。結構広まってるよ?教えてあげるから、な?』

『噂ってモン程当てにならない物は無いし。正直どうでもいいね』

 なに、こんなのに教わる間でもなく承知だ。学校に通っていないんだ、快く思わない人間からすればカモ。姉の私がいることで、より話の種になりやすい。目線で判る。当の本人共は隠しおおせているとどこか満足げだが。案外、そんなもんだ。

『へーえ。知りたくないんだ。逃げてんのかい?』

『そんなこと言ってない。私が言いたいのは、悪い評判ばっか流されたら、優がもっと学校に来づらくなるってこと』

 私への影響なんかより、こちらの方が深刻。優が、頑なに学校に行こうとしないのだ。幾ら手紙を送っても、お母さんを通しても、状況は同じ。

 弟の顔をいつ見たか、記憶がないのだ。そもそも会ったことがあるのだろうか。彼は私と瓜ふたつ、それでいて表情の現しかた、服の好みがまるで違う。毎朝目に入る、リビングの壁に掛かった笑顔の弟ひとりが映る写真。空々しい。

『一ヶ月前に来たっきりなんだよ?まあ、あの日私は休んでたみたいだけど』

 きっと、優を心から気にかけているのは、もう私だけだ。噂が広まるもっと前に、『大丈夫?』と話しかけてきた大人しめの集団は、昨日は自分が最近ハマったゲームについての会話に興じていた。

『おーい』

 あからさまな挑発。ピエロのような笑み。

『なーに回想入ってんだ。俺と話してんだよ、今オメーは』

 多分威嚇し合ってるの間違いだと思う。

『覚えてるよ。さすがに忘れん』

 嫌々の雰囲気を出してみた。話を早く進めたい。

『んで?』

『は?』

 …おい。

『「は?」じゃないよ。弟の悪評。お前、一体何を広めた?』

 軽くその辺の空気を変えておく。コイツがちゃんと答えるしかないように。

『悪評じゃねえ。多分マジのこと』

 溜め息混じりの返答。わりかし真面目な印象を受ける。これは、本当のやつだ。

『お前の弟はさ、』

『うん』

 やや待って。

『いないんだよ』

 

 世界が止まった。否、私が止まっている。口呼吸出来るのに、一音も発声出来ない。喉が、震えてくれない。

 私が、二、三回程、口呼吸した後。

 彼は、

『じゃ』

 とだけ残して消えた。真顔だったのが、怖い。

 何もかもが、こわい。

 次の授業の初めのあいさつも、私は声が出ないままだった。

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