土佐日記異聞 紀貫之の夢

赤城康彦

土佐日記異聞 紀貫之の夢

 歌人として名高い紀貫之は、延長八年(930年)より国司として土佐(現高知県)に赴いていた。

 土佐は京よりはるか遠くにあり。

 四国の南側に位置し、山と海に遮られた陸の孤島という地理的な条件などから、鬼の国として恐れてられていた。

 貫之も当初は不安を覚えていたが。

「暮らしてみれば、存外よいところではないか」

 と、土佐での暮らしを満喫していたようだった。

 土佐の国府は、香長平野にあり(現高知県南国市)。近くを国分川が流れる。山国として険しいところの多い土佐において、この香長平野は比較的暮らしやすい条件がそろっていた。

 京の都に比べれば田舎ではあるものの。香長平野の国府は貴人が暮らすにふさわしい造りではあった。

 平野部であるから、国府のほかにも様々な建物もあり。国府が置かれるにふさわしい都市造りもなされていた。

 ある晴れた日。四月も終わり、そろそろ梅雨にでも入りそうな感じの日であった。

 国府の前まで来て、じっと、閉ざされた門の向こうを眺めんがばかりに見据える旅の僧ふたりがあった。

 旅のせいか僧衣はぼろで、頭にかぶる笠もぼろ。喜捨でも求めているのだろうか。

「これこれ、よるな、下がれ下がれ」

 だが六尺棒片手の門番は無慈悲にも、手を振り旅の僧らを追い払う。

 僧らはそそくさと、やや離れたが、また立ち止まり。国府をじっと眺めた。

「こらッ! いい加減にせんかい」

 そのみすぼらしさから、功徳よりも瘴気を放っていそうな嫌悪感を、門番は禁じ得なかった。

 瘴気が国府にうつったら大変である。

 門番は六尺棒を、ぶうん、ぶうんと、唸るほど振るい、威嚇した。そこでやっと、僧らは離れていった。

「へん、汚い坊主どもじゃ」

 忌々しく僧らの背中を蔑視し、門番は改めて己の勤めに就きなおした。

 

 国府から追い払われた僧らは、国分川の川原まで来て、どっこいしょと広がる砂利に腰掛け。笠を取り、砂利の上に置く。

 僧ながら、長旅で毛髪の手入れが出来なかったのか。ふたりとも髪が伸び、首の後ろでまとめ。髭も顎の下まで伸びていた。

 ひとりは年老いて髪も髭も白く。ひとりは若く、髪も髭もまだ黒い。

 まず老僧から口を開いた。

「こたびの国府になられた紀貫之さまなるお方は、文字に明るい文人であるそうな」

「そのようでございますね、師匠さま」

 などと、流れる国分川の水面を眺めつつ話しをする。

「そのようなお方なら、文字の力を以って、土佐にただよう鬼の念をお鎮めになられるやもしれぬ」

「私も期待しています。しかし、出来るでしょうか」

「出来る、出来ないではない。やらねばならぬ。この台海(だいかい)の命を賭してでもじゃ」

「師匠さま……」

 老僧、台海の言葉に、弟子の若い層は絶句する。

「そんな顔をするな、五山(ごさん)よ」

 老僧は憂える面持ちの弟子に微笑みかけた。が、すぐに真顔に戻る。

「この土地の奥底にうごめく鬼の念は、土地の者に取り憑き、多くの血を流すことになろう。わしには見える」

 台海は言う。この土地より戦人多く現れて、兵革(ひょうかく)をなし。多くの血が流れる、と。

「たいらなところは、ここくらいなもので。あとは山の中。田畑も満足に作れぬし。ひもじいことも多かろう。それから逃れるために、食うため、生きるために、奪い、殺す。まさに鬼となって」

「思えば、不憫な話ではありますな」

「そうよな。不憫である。しかし、その不憫さは刃では消せぬ。筆を以って、不憫さを消すようにならねばならぬ」

「文字を学び、学問を治め、様々な人々と共に生きてゆけるように、ですか」

「うむ、まことの福運は刃では手に入らぬ」

「刃血(じんけつ)の業を、筆墨(ひつぼく)の業で鎮めるのですね」

「そうじゃ。文字に明るい文人の持つ念を借りての。これにしくじれば、多くの血が流れ、頭(こうべ)を割られ非業の死を遂げる者も出るであろう」

 台海は立ち上がり、川辺までゆくとしゃがみこんで、ながれる川の水を手ですくい、ごくごくと飲んで喉を潤した。

 弟子の五山も同じようにして、喉を潤す。

「戦の前の腹ごしらえじゃ」

 と、諧謔を込めて台海は言い。五山も笑って頷いた。


 時は過ぎて、夜の帳が落ちた。

 あたりはもうすっかり暗くなっていた。雲が出ているせいで、月明かりも満足でない。形もわからない。

 そんな夜の中、ある小さなぼろ寺で。

 台海と五山は、明かりもつけずに。合掌し、なにやら経らしきものを唱えていた。


 国司の紀貫之は、その日の勤めを終えて。家族と夕餉も済ませて。

 寝室の布団に潜り込んで、眠りについていた……。

 夢を見ていた。

「ここは……」

 貫之は、どこにいるのだろうか。

 空は分厚い雲が覆い、どんよりとほの暗い。そんな空模様のせいか、気持ちも重く沈みそうだ。

「……や?」

 地面を見れば、不毛な岩盤。その上に立っていた。しかし、びちゃ、びちゃと水を踏んでいるような感触。

 岩盤から泉が湧いているのかと思ったが。そうではない。

「これは、血か?」

 履物のつま先が真っ赤になっていた。

 こんこんと足元で湧くのは、泉ではない。血だ。血だった。

 貫之はおそれて後じさりする。

「ここはどこじゃ。地獄か?」

 と、恐怖が胸中に湧き上がる。

 足元を見れば、岩盤から湧き出る血はとどまることを知らず。池をなし、足首まで浸かっているではないか。

 その血の池に横たわる、不気味な人の影。姿ははっきりわからぬ。人の影のようなものが、池に多くあり。なんと、気が付けば貫之を囲んでいるではないか。

 その不気味さ、地獄の亡者とでも言おうか。幽鬼とでも言おうか。

 貫之は思わず懐に手を入れれば、何かを掴んで取り出す。それは筆だった。

「お救いを……」

 影は言う。

「その筆で経を書き、文字による救いを、我らに……」

「経、文字、救い、とな?」

 救われるために経を必要とし、筆で、と言う。やはりこれらは地獄の亡者か。

「……」

 貫之は口を真一文字につぐみ。なにがなにやらわからぬままながら、ためしに筆先を動かせば。

 中空に墨が浮かぶではないか。

「これは面妖な」

 と驚きを禁じ得ない。

 この筆もあやかしの類か。しかし浮かぶ墨を見て、亡者たちは、おお、と唸りを上げた。

 その唸りに法悦があるのが感じ取れた。

「ううむ、ままよ」

 貫之は意を決し、筆で、中空に仏教経典の経文を書き始めた。

 経典の文字がひとつひとつ、きれいに並んで、中空に浮かんでいる。それを見て、法悦を感じる亡者たち。

 やがて文字ひとつひとつが、まるで生けるもののように、さらに言えば蝶のように、ひらひら舞って。曇天の空へと羽ばたいてゆくではないか。

 その羽ばたきのたびに、光りが発せられ。どんよりとしたほの暗い景色が明るくなるようであった。

 光りは周囲を照らし、血の赤いもはっきりと見えるようになってゆく。しかし、影は、亡者は、光りの中で、消えてゆく。

 成仏したのかどうか。

 だが、経文を書く貫之も疲労を禁じ得なかった。なにせ自身も地獄にいるのである。それだけでも、相当な負担だ。

 書かれる経文の文字たちは、羽ばたくばかりでなく、静かに、薄紙がゆらゆらとゆっくり落ちるように、血の池に落ちてゆき。

 落ちたところが、墨のように黒くなってゆく。

 この筆で書かれた経文の文字は、亡者を成仏させ、血を墨に代える効能があるのか。

 それすなわち、極楽をつくることでもあるのか。

 我が手にある筆で、血の地獄を、墨の極楽に代えよと。そう御仏は仰せか。

「ならば、やらねばなるまい」

 文人としての自負が貫之を奮い立たせた。

 しかし……。

「わああああああああーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!」

 という、人ならぬ獣のような大絶叫。近くに落雷があったかのような衝撃。

 衝撃を受け、頭がくらくらし。

 戦場(いくさば)の、屍山血河の凄惨な光景が明滅しながら脳裏に浮かび。成仏したはずの亡者が空から、血の池にしぶきをあげながら落ちて、転がり。ぴくりとも動かない。

 それまで書いてきた経文の文字も、突然火を噴き。火の蝶のように、燃えながら漂い、やがて灰となって血の池に落ちた。

 貫之は驚きのあまり転び。筆は手から離れて。血の池に沈んで。探せども探せども、つかみ取ることは出来なかった。

 血の池で、ころがりながらあがく。

「貫之さま、貫之さま!」

 妻の声で、はっと目を覚ます。

「……夢か。わしは、悪夢を見ておった。起こしてくれて、感謝するぞ」

 と、上半身を起こしながら言う。家来が手燭を持ち。やや場が明るくなる。

 見れば、妻は涙をとめどなく流す。

「娘が……」

「どうした」

「亡くなりました」

「なんじゃと!」

 貫之は絶句した。

 愛する娘は、重い病にかかっていた。愛する娘である。なんとか治るよう、祈っていたが……。

「おお、なんという」

 言葉もない。あの悪夢は、悲劇の報せであったのかどうか。

 涙があふれて、妻とともに泣いた。


「だめじゃったか……」

「鬼の念が、ここまで強いとは……」

 台海と五山は、合掌しなにかを唱えるのをやめ。床板に手をつき。

「無念」

 を繰り返していた。

「これから、いかがなさいますか?」

「そうじゃな、諦めず、やれることをやるしかあるまい。じゃがさすがに疲れた、今は、寝ようぞ……」

 と言って横になった台海だが、寝息もなく、やけに静かだった。

 五山はまさかと脈を取れば、台海はこと切れていた。

 国府に念を送り、紀貫之の文人の素養を以って、この土地の刃血の業を筆墨の業に塗り替えようとしたが。果たせなかった。

 さらに、命の火まで燃やし尽くしてしまったようだった。

 五山は合掌し、ただただ師匠である台海の冥福を祈った。


終わり

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