第2話 手紙
実習が始まって1週間が経った頃、稲村先生に呼ばれた。
「倉田さん、今いい?」
「これから増井さんの内視鏡検査に行くところなんですけれど?」
「それは、他の人にお願いするから、ちょっと来てくれるかな」
連れて行かれた部屋には、遅れて看護師長もやって来た。
慣れて来た頃だからって、何か見過ごした?
個別に呼ばれるような失敗をしてしまった?
考えても思いつかない。そもそも思いつかないことが問題なのかもしれない。
これまでの1週間を頭の中で振り返る。
「そんな緊張しないで。倉田さんがどうこう、って話じゃないから」
看護師長が穏やかに言った。
「看護師が手紙を受け取ってね」
そう言った稲村先生と看護師長が顔を見合わした。
「その手紙に、倉田さんが患者さんにセクハラを受けてる、って書いてあったの」
「わたしがですか?」
「思い当たることある?」
「ありません」
「我慢しなくていいのよ。担当患者さん変えることだってできるんだから」
「それって、わたしが増井さんにセクハラを受けてるってことですか? そんなことないです。別の人じゃないですか?」
「でもね、『セクハラを受けてる看護師は倉田という名前の人です』って、はっきり手紙に書いてあったし、その手紙を渡してきたのは若い男の子だったから、名前を見間違えることもないと思うのよ」
「そう言われても……」
「あっ」
稲村先生が突然思いついたような声を上げた。
「ねぇ、もし、中村さんが増井さんの担当で、倉田さんと同じこと言われた場合、中村さんだったら嫌な思いをすることは何だと思う?」
中村さんは同じ実習グループの1人で、真面目で大人しい子だった。同じ看護科の男の子にも、自分からは話しかけられないような子。
「中村さんだったらですか……そうですね……検査の付き添いや散歩に行くことを『デートに行こう』って言ったり、『膝に乗って』とか、『胸小さいね』とか『足が細いね』とか言われることでしょうか」
「それ、セクハラ」
「気にしたことなかったんですけど……年配の男性って、みんなそんなものかな、って思ってました」
「担当変えることもできるけど、どうする?」
「困っていないのでいいです」
「何か嫌なことがあったら、すぐに相談してよ」
「わかりました」
セクハラ……
そんなふうに考えたことなかったな。
増井さんのことは寂しがり屋のお爺ちゃんとしか思っていなかった。
増井さんに面会の人が来るのを一度も見ていない。土日に来ているのかもしれないし、平日には顔を出せない事情があるのかもしれない。
でも、隣のお爺さんなんかは、毎日のように誰かが顔を出していて、ベッドを囲うカーテンの向こう側から、よく笑い声が聞こえる。
だから、ちょっとばかり切なく思っていた。
増井さんはよく飴をくれるけれど、絶対にさわってこない。わたしが両手を差し出すと、少し上から落とすように渡してくる。
待合室なんかで会うお婆さんの方が、「ありがとうね」と言いながら、よくぎゅっと手を握ってくるから、そっちの方がセクハラなんじゃないかと思ってしまう。
稲村先生とは大学で演習が始まる前に、時々雑談をしていた。
その時、わたしが野球場でビール売り子のバイトをしていることを話したことがある。
「ビールの売り子って大変そう」
「そうですね、大変と言えば大変かもしれません。肉体労働だから」
「ねぇ、酔っ払いに絡まれることあったりする?」
「時々あります。試合が盛り上がるとみんなよく飲むから。でも、みんな野球好きの楽しい人ばかりです」
「受け取り方によって印象って変わるものだけど、倉田さんは、そんなふうに考えられるんだね」
あの時言われたことを思い出した。
そっか、それで稲村先生は、中村さんに例えたのか。
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