Blue ―あの日見た空は忘れない―
野宮麻永
第1話 何も始まっていない
『Change your irrational anger to kindness.』
彼女の言葉があったから、わたしはここにいる。
東奈大学医学部看護学科で迎える2年目の冬、隣接する東奈大学病院で2週間の実習が始まった。
この実習では、学生1人につき1人の患者さんを受け持つ。
補助教員の稲村先生が決めた、わたしの実習先は呼吸器内科だった。
そして担当になったのは、増井さんというかなり年配の男性。
増井さんは、一見すると元気なのだけれど、毎日検査のためにいろんな科を回っているような患者さんで、入院して1週間になると聞いた。
「倉田さん、今日は屋上へデートに行こうよ」
病室に顔を出すと、いつも増井さんの方から話しかけてくる。
「デート」というのは、屋上への散歩に付き合って、という意味だった。
「いいですよ、行きましょうか」
「倉田さんは可愛いねぇ。わたしのとこにお嫁さんに来ないかねぇ」
「増井さん、奥さんいるって言ってたじゃないですか」
「あれはもうばぁさんだから」
散歩から戻ると、増井さんはいつも飴をくれる。
「飴ちゃんあげるね」
「ありがとうございます」
病状が急変するような患者さんではなかったけれど、いつも緊張していた。
「血圧測りますね」
「膝に乗って測る?」
「乗りませんよ」
「今日また別のとこで検査なんだけど、一緒に来てくれる? デートできるといいなぁ」
「行けるかどうか聞いてみますね」
増井さんとは、そんな毎日だった。
家に帰ると、今度は、その日のうちに提出するレポートにかなりの時間を費やす。
増井さんについては、飲んでる薬が多かったから、毎日提出する記録を書くために、調べる薬の量も多い。
実習中は、集合時間が早いから、ユニフォームに着替えることを考えると、朝8時には大学に着いておかなければならない。そのためには6時半には家を出なくてはいけないから……
もう全てを投げ出して寝てしまいたくなることが何度もあった。
でもそんな時は、自分に言い聞かせる。
「If you have an environment where you can learn,learn.(学べる環境があるなら学びなさい)」
随分前に言われたその言葉を、何度も、何度も、言い聞かせる。
提出するレポートを書き上げ、稲村先生にメールをしてから、読んでおくように言われた本を読み、見ておくように言われた動画を見て、倒れ込むように眠りにつく。
まだ何も始まっていない。
だから、弱音なんて吐いていられない。
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