息絶える場所

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息絶える場所

 人は長く生きるにつれて周りの人々がどんどんいなくなるという恐怖を抱えながら生きているのではないだろうか。或いは最後には自分がいなくなる恐怖も含めて。


 ここはどこかの国にある山の中腹にある広場である。所々に凹凸があり、全体には小さな草花が散りばめられている。山の登山道から離れていることもあり、広場といっても普段はここに人が立ち寄ることは少ない。ある一人を除けば。鬱蒼と木々が生えるこの山に、この場所だけは地面が太陽光を直接受けられる。


 この場所は不思議な習性があった。年老いた動物が集まり、この場所を最期の場所として過ごすのだ。その動物も熊や鹿のような比較的大きな動物からネズミやモグラなどの小さな動物まで皆本能的にここを訪れるのだった。


 皆ここで最期を迎えた者は、亡骸がそのまま残る。そのまま残るということは天候や季節にもよるが、徐々に死臭を発するということになる。登山道から外れた場所にあるとはいえ、その臭いは夏の登山客を苦しめることもある。興味本位で訪れる者もあるが死臭で疲弊する者がほとんどである。


 先ほどここには一人を除いて人の行き来が少ないと書いたが、その除かれる一人がネルチャークという男である。彼の家は有史以来代々この場所を管理し、彼で九十六代目になる。彼の仕事は息を引き取った動物に対して線香をあげ、供養したり土の下に埋めてやったりする。大きな動物だと深くは掘るがそれでも体が大きいために埋めた後、ちょっとした山になる。それがここが凹凸の地形になる理由である。夏には日差しが直接当たり体力を奪っていくため、冬よりも重労働となる。スコップを片手大小の動物を埋めることも多々ある。ただ、ネルチャークは思うのである。彼らはここに辿り着いた時点で他の動物に捕食されることも無く一生を全うする幸福な動物達なのだと。


 ネルチャークの仕事に関して、周りから畏怖の感情を抱く者もあれば、かつての汚れ仕事に対する嫌悪の念を抱く者もいた。ただ、ネルチャーク自身は周りにどう思われていようが、自身の仕事を全うすることに全力を注いでいた。そんなことに気に求める暇など無かった。


 春になり日差しが強くなり息絶えたものにも強く照らす。春から夏にかけてはこの辺りは死臭が漂い、人をより寄せ付けなくなる。だが、ネルチャークだけは何とも無い顔して作業に励む。この季節になると周りには花が咲き、草木も穏やかでなく活気に満ち溢れる。そんな時、ネルチャークは数年前の冬のことをふと思い出した。


 北風の冷たさが身に染みる頃だった。木々の葉は朽ちて落ち、枝だけが風に揺れていた。朝、ネルチャークがこの広場に来ると、草や地面には霜柱が立ち、昨夜の深い冷え込みを物語っていた。


 ネルチャークは「それ」を臭いで探した。寒さ厳しい冬でも死臭を嗅ぎつけられた。午前中には二匹「それ」を見つけた。彼はそれぞれお香を焚き、ぶつぶつと言葉を二言三言言い、いつもの所作をした。空では鳥が乾いた声で鳴いていた。二匹の「それ」は二匹とも猫だった。どちらも毛並みも乱れ、年寄りの猫特有の目をしていた。午後になって小屋で昼食をとり、食べ終わると高台のところから広場を眺めた。すると、道沿いの近くにこの寒さの中で半裸になっている老人を見かけた。どしっと地面に座る老人からは死の雰囲気など無く、たくましい生の雰囲気のみが漂っていた。老人は遠くを見ていた。守りの奥か、或いはその先か。時間が刻々と過ぎるのを待っているようにも見えた。


 過去数百年でここに死期を悟った人が来ることは記録上あるにはあるが、ネルチャークにとってそれを見るのは初めてだった。少なくともここ百年の間ではもっぱら人以外の動物が集まる場となっていたのだ。彼はそ恐る恐るその老人に喋りかけることにした。


「あなた、名は?」

「ウォルトルという者だ」

「歳は?」

「八十一だ」

「家族はいるのかい?」

「いた。女房に独立した子供が二人」

「その家族達はどうした?」

「今頃、テレビでも観ているだろう」

「あなたは何故ここに?ここがどういう場所か知らないわけでもあるまい」

「知ってるさ。だから来た。もうそろそろいいと思ったからだ」


もういいとはどういうことか、ネルチャークはその時わからなかった。


「とにかく、うちの小屋が近くにあるからそこで暖まりなさい。このままだと凍え死んでしまう」

「それでいいんだ。その方がいいと思ってここに来た」

「何か嫌なことでもあったのか?」

「ない。ただ、もういいと思っただけなんだ」

「もういいとはどういうことなんだ」

「それだけの意味さ。特に深い意味はない」


 ネルチャークには理解出来なかった。彼は何の悩みも無く、他のそれらしい理由も無く死を選ぼうとしている。特に楽しい事が無いにしても、生きていればどこかで楽しい事が見つかるかもしれない。可能性としてはあり得る。ただ、それでもこのウォルトル老人は死の方を選ぶのだ。ネルチャークは泥酔した人間を相手にしたような気分になり、その場を離れた。この低い気温だ。寒さにこたえて明日までには家に帰るだろう。ネルチャークはそう思って老人の前を後にした。空は曇りがかり、小さな粒の雪さえ降ってきた。


 次の朝、小さな粒の雪は大きな粒に変わり、その粒は地面を覆い尽くしていた。大きなコートを羽織って自宅を出たネルチャークはふと、昨日見つけたウォルトル老人のことを思い出した。流石にこの寒さに絶えきれず自分の家に帰っているだろうが、もしまだ居たとしたら…風邪おなどひいていないわけがない。ネルチャークは広場に着くと、入り口奥にある小屋に入った。そこで「供養」に必要な道具などを用意し、身につけると、早速仕事に取り掛かった。


 広場を一回りし、一度小屋で休憩をしようという時にネルチャークは彼を見つけた。頭や肩、あぐらをかいた足元にまで雪が覆っているところを見ると、昨日のあの時から何も変わらないらしい。しかも寒さで震えもせずじっとその場に座り死を待っているのである。常人であればとっくに風邪をひいて衰弱しているところを…


「あんたも丈夫なもんだな」


ネルチャークは呆れながら言った。


「そうだ。あなたに言伝を言うんだった。もし私が死んだらその場で即供養してくれ」

「悪いが人間は対象外なんだ」

「なんと!」


ウォルトル老人は思いの外驚いた様子だった。


「何故人間は駄目なんだ。人間だって動物だろう」

「それはその通りだが、人間が死ぬと役所が絡んでくる。大昔には人間も扱っていたようだが、人間の戸籍を役所が扱ってる現代の社会では人間は対象外になるんだ」

「嫌だ!死ぬときぐらい自由に死なせてくれ!」

「駄々を言っても駄目なんだ」


これではおもちゃを欲しがる子供を嗜めるようである。


「とにかく駄目なものは駄目なんだ。小屋の鍵を開けておくから眠るならそこで寝ても構わない。だからもう少し考え直してくれないか」


ネルチャークはそう言って家に帰った。


 次の日、ネルチャークは小屋の中を見たがウォルトルの姿は無かった。周りの草には霜がおりて白い膜を張っているようだった。さすがに風邪などひいてはいないかと半ば心配しながら彼のいる場所へ向かった。ウォルトルは横たわって眠っていた。ネルチャークは呆れ顔で目の前にある崖を眺めていた。何故そんなに死にたがっているのかが理解できない。病気でもない。病気になろうとしても、見たところ風邪などひいている様子も無く健康体だ。それで人生をわざわざ自分から終えようとするのは贅沢な話だ。そんなことを思っているとウォルトルは目を覚ました。


「おはよう」

「おはよう」

「見たところ状況は何もかわっていないようだな」

「そのようだ」

「悪いことは言わない。一度、家に帰ってみたらどうだ。こんな格好で風邪すらひかないんだ。こんな丈夫な身体を亡き者にするなんて勿体無いだろう」

「そんなことはない」

「何故、そう死にこだわるんだ。独り身でもなし、家に帰れば迎えてくれる人もいるだろうに」

「これは人生計画だ」

「人生計画?」

「そう。若い頃に人生を計画立てて、その通りに過ごそうとした。もちろんすべて計画通りにいったわけではないが、なんとか順調に進んだ。そして私は八十一で人生を全うするという計画でここまで来たんだ」

「よくもまぁそんな計画を…」

「自殺でも無く、殺される訳でも無く、自然死で終えるというのが私の計画だった。そんな時ここに来て横たわる老犬をみた時に閃いた」

「ここに来たからといってそれは自然死にはならないだろう。それに健康体でありながら、わざわざ死を選ぶなんてなんと贅沢な話だ」

「そう。これは希少な食べ物を食べるより、高い車に乗るより、どんなことより贅沢な行為だ。私はこれまで贅沢という贅沢をほとんどしなかった。だが、ここで人生における最大の贅沢を味わおうというのだ」


そう言われてネルチャークはため息をついた。世の中には自分がどうしても理解できないことはたくさん存在するものだと、今改めて感じている。今そこにあるものを敢えて壊そうとする。確かにそれは贅沢だ。だが、必要な贅沢か。そこに疑問を持った。


「じゃあこうしよう」


ネルチャークは一つの提案をした。


「今日は一旦、家に帰るといい。そして、事情を家族に話すんだ。それで了承を得たら安楽死でもなんでもすればいい。そして、遺灰をここに撒いて供養する。それでどうだ」


それを聞いてウォルトルは苦い顔をした。


「そんなことをしたって家族はわかるものか。三日間家を留守にしても何も関心が無いような家族だぞ。探しに来てもくれない」

「それでもあなたが死ぬと言えば、目の色を変えるかもしれない」

「まさか…私が居ようが居まいがきっと何も思わないさ」


 ネルチャークは彼が、家で居場所が無いことを苦に死のうと考えているのではないかという思いがふと過ぎった。しかし、執拗に家族を避けているのに疑問を持った。


「家族とは不仲なのか?」


ネルチャークは聞いた。


「いや、そんなことはない」老人は言い切った。

「世の中、家にいる人間が死のうなどと考える時にどうにかして止めようとするのが不仲でない家族だ」ネルチャークが返した。

「あんた、家に家族はいるのか?」


逆に老人は聞いた。


「妻がいる。子供はいない」

「そうか…」


 老人は下を向いた。ネルチャークにとってはその反応が興味深かった。関心が無い訳でも無い。あるいは関心が無いような反応に努めているように見えた。もしかするとウォルトル老人にとっては一方的に家や家族に対していい感情を持っていないのかもしれない。


「そんなに家に戻るのが嫌なら無理に戻る必要はない。ただ、どうするか数日以内に考えてくれ」


ネルチャークにとってはウォルトル老人をどうにかしたい気持ちも無いことも無いが、ここにずっと居続けられるのも困るのだ。仮にここで老人が死んだとき、最悪の場合、殺人や自殺幇助に問われてしまうことになる。代々続く稼業の都合上そういったことは一番避けなければならない。


「…わかった」


ウォルトル老人は何かを諦めたような表情をしてそう答えた。

ネルチャークはその日以降、ウォルトル老人を見ることはなくなった。


 それから半年後、広場に集まる供養の数が多くなったことによって、ネルチャークにおけるウォルトルの記憶は徐々に小さくなっていった。季節も暖かくなり、冬には痩せた薄茶色のような色になっていた草々が、濃い緑色となり元気に生えていた。そんな季節になると、この場所で死を待つ動物、あるいは死を迎えた動物は匂いでわかるようになる。ネルチャークは腐敗が進みやすいこの季節はそれぞれ早めに供養するように努めていた。夏になるとこの辺りは死臭も壮絶なものだった。面白半分に訪れる人々も流石にこの死臭には耐えかねる。しかし、この「匂い」に誘われて死が近づく動物達はここに集い、土となる日を待つ。


 そんなある日、小屋に一人の老婦人が訪ねてきた。人が訪ねてくること自体がそもそも珍しいのでネルチャークは内心驚いた様子で出迎えた。小さな壺を抱えたその老婦人はウォルトルの姉だと名乗った。


「ウォルトルは三ヶ月前に亡くなりました。自ら命を絶ったようです。部屋からは大量の睡眠薬が残されていたそうです。残されていた遺書からあなたのことを知りました。ここであったやりとりなども書かれていました」


「これは、どうも…」


 ネルチャークは結果的ウォルトル老人を自殺に追いやってしまったのではないかと内心どぎまぎした。動物の供養しかできないと突っぱねたことや、面倒だと思う気持ちが無かった訳ではなかったことを考えると罪悪感すら覚えた。


「今日は、遺言により彼の遺骨をここで供養していただきたいと思って参りました」


ネルチャークはその時彼女の抱えていた壺に目をやった。あの寝転んでいた老人の体と比べると随分と小さな壺だった。


「それと…あなたに宛てた手紙もあったので、それをお渡しします」

「私にですか…」


老婦人は一枚の便箋をネルチャークに手渡した。


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 あの時は厄介な年寄りの相手をしてくれてありがとう。私は私の理想の生き方、死に方を実行するためにあそこへ立ち寄った。あなたに論されて去り、その後自らで死を選んだが、あなたがそれに対して罪の意識を持つことはない。これらに関しては私が自ら判断し、実行したことなのだから。あなたは薄々気付いていたとは思うが、私は結婚もせず、ずっと独り身で暮らしてきた。なんとなく暮らしていたらもうそんな歳だった。気持ちこそは「なんとなく」だったが、年齢と身体はそうでは無かった。歳を重ね、徐々に衰える身体。どうしようも無かった。寂しさなどはとうに感じなくなってはいたが、後悔はしていた。あの時、行動することによって誰かと一緒に暮らすことが出来ていたら、今の考え方も少しだけ変わっていたのかもしれない。


人間、生きているからにはどこかで死ぬ。ベッドの上で死ぬことができれば、事故でそのまま死んだりすることもある。私のように自ずと死を選んで死ぬ者もいる。(多くの場合、それは不本意かもしれないが)私はあの土手に最期を、息絶える場所として死を迎えたかったのだ。だが、それももう叶わない。せめて、骨を埋めるなり撒くなりしていただければと思う。大変申し訳ないが、是非年寄りの最後の我儘を聞いていただけたら幸いである。

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文章はそこで終わっていた。人間何かに拘ることはよくある。それがいいことに作用することも有れば、何かをするときの妨げになることもある。ウォルトル老人はこれで幸せだったのだろうかと、ネルチャークは思った。人なら誰しも死ぬ時期、死ぬ場所には思うところはあるだろう。しかし、自ら死を選んでまでそれを成し遂げようとすることに幸せを感じられるだろうか。否定もできない。しかし、肯定もできないとネルチャークは広場で揺れる草木を眺めながら思った。

ネルチャークは老婦人から壺を受け取った。広場に行き、二言三言何かを小さく呟いて壺の蓋を開けた。とても小さくなったウォルトル老人、ウォルトル老人だった一つ一つをネルチャークは恭しく土に一つずつ埋めていった。すべてい埋め終わり土を被せた後、また二言三言小さく呟いた。

「ありがとうございます」一言老婦人は言った。

その後、風が舞った。その間を誤魔化すように。

「うちの弟はとんでもない不器用でしたね」間を開けて老婦人は言った。

「なに、ほとんどの人間は器用じゃありません。もがきながら生きているんです」

「今日は本当にありがとうございました」老婦人はもう一度そう言って頭を下げた。

「また、できるのであればここに遊びに来てください。弟さんはいつもここにいます」ネルチャークもそう言って頭を下げた。

「えぇ。ではまた…」そう言って老婦人は去った。

ネルチャークは空を見た。西陽からもうすぐ夕焼けに変わる色をしていた。

「今日はもう、帰ろう」

ネルチャークはいつもより早めに仕事を切り上げることにした。


広場には墓跡がない。名前が無い動物ばかりが訪れるので建てる必要が無いからだ。たとえ以前には名前があった動物でも、それを捨ててここに来た者達だった。だた、一つだけ人の墓石が隅の方に小さく建てられていた。墓標にはウォルトル老人のフルネームと生没年が書かれて数年前から置いてある。そして墓石のうらには一言こう書かれていた。

「理想に死した者ここに眠る」

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